東京大学読書サークルこだま 公式ブログ

東京大学読書サークルこだまの公式ブログです。部誌『こだま』に掲載している文章などを公開していく予定です。

帰納的人生讃歌

昔々、あるところに一人の運命信者がいました。

「私の人生に起こることはすべて、あらかじめ運命によって定められたことだと思うの。出会う人、起こる出来事、全てにきっと意味がある。私はひとつの運命に導かれて今この道を進んでいるの。」
「なるほどねぇ。確かにそうかもしれないね。」
  

私は運命信者ではございませんので、このように表向きは笑顔を繕い彼女を肯定して差し上げます。彼女曰く、神様のような存在はいるそうです。運命と呼ばれるものはあるそうです。全てに意味があり、人は常に何かに導かれているそうです。彼女が今私とハニートースト二人前を挟んで、ぺちゃくちゃと一方的に話していることも、先程見た映画が彼女にとって示唆深い内容だったらしいことも、インターン先で大量の仕事を課されているということも、全ては彼女が「なりたい自分」とかいう目標に近づくための伏線だそうです。そこにいかなる苦痛が伴おうとも、ひとつの確固たる目標に近づくためであれば彼女はそれを厭わないそうです。

私は蜂蜜を吸ってぐでぐでになったハニートーストにフォークをぶっ刺しながら、彼女の曇りなき信者の眼差しに、私の中で奇妙な違和感がコトコト音を立てて暴れようとするのを聞いた。頭の中にはやがて、刺々しい言葉の濁流が流れ出す。

運命なんてあってたまるか。意味なんてあってたまるか。私がたまたまこんな所で大して親しくもないあなたと死ぬほど甘い食べ物を食べているのは、神の導きなどでは決してない。それは、「今日はなんだか良い気分だからあの子が行きたいと言っていたカフェに一緒に行くか」という、私の気まぐれのせいでしかない。私の気分とあなたの気分が合致した、偶然の産物である。そこに運命などない。意味などない。

あなたが運命を信じて幸せに生きているのは、私の人生には全くもって関係がないので、別に構わない。信条を変えろととやかく言う気も全くない。しかしながら。例えば、先程観た映画が全くもってあなたには刺さらない内容だったらあなたはどうしていたのか。今の私の人生には必要ないと一蹴したのだろうか。もしそうであるのならば、あなたの運命やら目標やらのために存在価値を否定される映画がいたたまれない。

はたまた。インターン先の激務、そしてやがて就職する会社の激務はあなたの目標のために意味があるものだとして。あなたがその激務に殺され廃人と化す、もしくは文字通り殺されて自死などしたとして。それも運命のお導きだとあなたは言うのか。苦痛の果てに更なる苦痛しか待っていないような運命など、私は真っ平御免である。

第一、目標なんてものはそれを達成した後の幸福を確約するものではない。達成した瞬間のひと時の満足感と多幸感、それだけだ。ようやく達成した目標、辿り着いた幸せにも、人はやがて飽き始める。物足りなくなる。悲しいかな、あれほど望み、そのために苦痛をも耐え忍んできたような目標たるものが、一度達成してしまえば何か味気ないものに思えてくる。

すべては無意味だ。私がたまたま人間として東京に生まれたことにも、好きで続けていた趣味でそれなりの評価を得たことも、今この大学に通っていて、あなたと友人になったことも、親戚がこの前癌で死んだことも、今日観た映画が私にはつまらなかったことも。

例えば私は明日歩きスマホをしていて路上でトラックに轢かれて死ぬかもしれない。でもその死にも意味はない。全ては無限の選択肢の中からたまたま気まぐれで私が選びとったものたちの成す結果でしかなく、そこに神だとか運命だとかによる操作は存在しない。

あえて逆に言うなら。神や運命の意思に無関係に、私が考えたり考えなかったりして気まぐれに選びとった選択の結果、そこにある偶然性にこそ「意味」と呼べるものがあるのではないか。すべて無意味だとして、すべて偶然の産物でしかないとして、でもその結果私が今ここで何故かあなたとハニートーストを食べているという事実には、何か笑っちゃいたくなるような愉快さがありませんか。

 

勿論私には人生における目標などありません。これを成し遂げれば幸せになれるはず、などと信じて努力できるような目標はありません。私は明日にでもこの街が煩わしくなって出て行くかもしれず、あなたはなんとなく私が疎ましくなって今夜にでも私と縁を切るかもしれない。でも、私の気まぐれにもあなたの気まぐれにも、運命や意味などはない。無意味であることを受け入れよ。そして己のしたいように生きよ。運命や目標だとかのために、今この瞬間の苦しみに甘んじることはない。どうせいつか無意味に死ぬのだ、今暴れなくてどうする。


「ねぇあなた最後のひと切れ、残すなら食べていいよね」

えっ、と彼女が戸惑いの声を上げるより先に私は甘い塊を口に放り込む。まあそれも運命なのかもしれないね、とか言わないでしょうね。あなたが何を信じるのもあなたの自由だけど、私の気まぐれには、くれぐれも勝手に理由を付けないで頂戴ね。

夢一夜(仮)

通りすがり、夜通し
独り語りでも聞かせてよ
二人よがり、灯りなんかに
気を取られないように
踊り明かせないかな?

 

体より心を見て、と
シャッフルのラブソングが言ってる
歌い上げるロマンティシズム
理性がお好きみたい

 

明け方の街の雑踏
罪もない仮面ばかり

 

恋と呼べなけりゃ意味がないと
責め立てる常識たち

 

通りすがり、夜通し
独り語りでも聞かせてよ
二人よがり、灯りなんかに
気を取られないように
踊り明かせないかな?

 

意味深なエモーションだけの
言葉に重ねたくはない
切ないドラマにできるほどの
起承転結もない

 

恋だとか他人だとか
名前なんてどうでもいい

 

ひとときの陰り、永遠の光
瞳に刻ませて

 

青い空のもとでは
二度と飛べない暗い憂い
記憶のアルバムの隅っこ
その他大勢とは、少し違っててほしい


通りすがり、夜通し
独り語りでも聞かせてよ
二人よがり、灯りなんかに
気を取られないように

 

踊り子より可憐に
期待通りにステップしても
一人芝居、客は朝焼け
よくあるお話の
よくある幕切れね

 

 

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上の作品は、僕が作詞で参加しているアマチュアバンドの、とあるメロディーに乗せて構想した歌詞の原案です。ただし必要以上にアダルトな空気感を纏ってしまったため、全面的に作り直すべきだろうと判断し(なにしろ色気が売りのバンドではありませんので……)、メンバーに見せる前に先回りして自らボツを出しました。ですからタイトルにも「仮」がついています。

 

歌詞とはメロディーありきのもの。それ単体での見栄え以上に、声に出して歌ったときに輝くことを目指して作られるもので、したがってここに載せたものは言わば不完全な作品です。

 

にもかかわらず載せているのは、むろん今号のゆるやかなテーマ「偶然」に合致する内容でもあったからですが、前述のような偶然性を帯びた成り立ちそのものがじつは面白いのではないかと思ったのです。

 

『こだま』に載せようと思って作ったわけではない、それどころか世に出さない予定のものだった。それでもたまたまテーマに合うから、載せてみる。創造的な営みにはそういう自由さがあって良いだろう、という思いは僕の信条のひとつでもあります。

 

またいずれバンドのほうで、これとは違った詞をメロディーに乗せた「完成品」も発表することになるでしょう。ぜひ聴いてみてください。バンド名は「Stray Beep」といいます。

二〇二〇年の「観光客」として

 コロナ禍で、どこか遠いところへ行く機会はずいぶん減った。逆に、今までやっていた旅行っていうのはそもそも何だろう、と考えてみたりもしている。

 
 ガイドブックとにらめっこし、その写真に載っている観光名所を実際に見、これで目的は達成できたと満足して次に向かう——旅行は、ともすればこうしたスタンプラリー的スタイルになりがちな部分がある。また現代では多くの人が、旅先の写真や動画をSNSにアップすることで、旅行自体を言わばコンテンツとしてシェアしている。


 僕自身そういった感じで小規模な満足を得ることもあるから、それらを否定する気はあまりない。しかし旅行や観光の持つ射程ってこんなものじゃないだろう、とも思う。


 東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』は、旅の効能をズバリ「環境を変えて検索ワードを増やすこと」にあると言う。人が何かに関心を持つためには、偶然の出会いが不可欠だから。


 これは、最近の子供が考えそうな(というか実際言っていたのを見たことがある)「検索すればなんでも出てくる時代に知識なんて要らないんじゃないの?」という疑問へのアンサーにもなっているように思う。そもそも検索ワードを知らなければ、人は何も検索できない。そして普通に暮らしている限り、僕たちの知っているワードはあまりに固定的で、あまりに少ない。『弱いつながり』では、ひとつのところに根を張る「村人」でもなく、動き続ける「旅人」でもない、ある意味「ふまじめ」で「無責任」な「観光客」的在り方の可能性が説かれる。

 

 この概念をベースに、哲学的な議論をさらに発展させたのが同じく東浩紀の『ゲンロン0 観光客の哲学』。大衆社会や動物的消費者を批判してきた理想主義的な二十世紀の人文学を真正面から迎え撃つ、まさに二一世紀を生きるための書と言える。

 

 さて、二〇二〇年の今、移動を伴う「観光」は封じられた。『弱いつながり』の言葉を援用するなら、インターネットとは「強いつながり=既存のつながり」を強化するだけのツールである。

 

 そんな中でどうすれば偶然性を取り戻すことができるのか。その思考および実践はまだまだ途上だけれど、たとえば文学を主に取り上げるっぽい書評誌で、あえて文学以外のものを書評してみる、とかやっていたりはする(いや、それは単に最近あまり文学に触れられていないだけかもしれない……)。

『こだま』三号に寄せて

ぼくらは偶然を欲している。
目の覚めるような出会いを。心臓を高鳴らせる眩い光を。それと出会った瞬間、今までの人生はすべて嘘だったと思ってしまえるような極彩色の刺激たちを。

 

ぼくらは必然を欲している。
あの出会いが自分を変えた、あの言葉が自分を救った、あの選択が今の自分を作ってくれた。そうして事後的に語られる過去の偶然は、まるで初めから決まっていた運命のようにも見えてくる。
ぼくらは物語としての人生を編む。物語とは、偶然を必然に変える装置だ。

 

コロナ禍はぼくらから偶然を奪う。
「ステイホーム」を我流で訳すとしたら、「偶然を捨てよ」とでもなるだろうか。外へ出ること。街で誰かと関わること。人と人との接触から偶然は生まれる。


その「接触」それ自体がリスクになる以上、従来型の偶然が奪われるのはやむを得ない。なぜなら、全体ではなく個のレベルで考えた場合、ウイルスに感染するのはまったくの偶然だから。誰が悪いのでもなく、感染とはどこまでも確率論的な事象にすぎない。政策によって感染を封じ込めるという「全体の論理」と、努力すれば感染は必ず防げるはずだという「個の論理」を混同してはいけない。


ところが残念なことに、「感染したのは予防を徹底できていなかったせいだ」と事後的に原因が語られ、迫害される実情がある。そして石が投げ込まれる。ここでも偶然は必然化されている——蓋しもっとも悪辣な形で。
こんな過ちが社会を取り巻く今だからこそ、ぼくらは偶然について考える必要がある。

 

この世に必然の因果なんてない、すべては偶然だ、と言い切ってしまうことは容易い。きれいな物語なんてない、ただ現実があるだけなのだと。


 けれども、それではぼくらは生きていけない。偶然の糸を必然のほうへ手繰り寄せ、いろいろな偶然に自分なりの意味を見出し、織物のように物語を生成しながら、また誰かの物語と融け合っていく。生きるとはそういうことだろう。だからぼくらには本が要る。文学が要る。


 「偶然」をゆるやかなテーマに掲げるこの『こだま』三号もまた、あなたの物語の一部になれたら幸いだ。

『こだま』2号 目次

こんにちは、読書サークルこだまです。皆さまいかがお過ごしでしょうか。

さて、このたび部誌『こだま』2号が完成したので、公開します。目次は以下の通りです。

 

書評

英国ミステリの世界 〜『カササギ殺人事件』書評〜

日奈坂俊樹

https://kodama-echo-reading.hatenablog.com/entry/2020/07/03/221403

 

無常と古典

山下純平

https://kodama-echo-reading.hatenablog.com/entry/2020/07/03/221247

 

創作

鑑賞 「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと…」

山下純平

https://kodama-echo-reading.hatenablog.com/entry/2020/07/03/221320

 

底の方から

村上めぐみ

https://kodama-echo-reading.hatenablog.com/entry/2020/07/03/221440

 

 

東京大学読書サークルこだま

Email: ut.shohyo@gmail.com

Twitter: @kodama_reading

底の方から

雨音が聞こえる。二つ目のアラームが鳴り響いている。深い眠りが乱されて、ちょうど今見ていたばかりの夢が終わりを告げる。薄暗い部屋。不明瞭な意識の中に、ざぁざぁと雨の降る音が流れ込んでくる。

寝起きで冴えない頭に必要最低限のエネルギーを送り込み、ダイニングテーブルでぼそぼそと朝食を摂る。少しだけ開いたカーテンの向こうには、水色の街が覗いている。つめたくて、限りなく灰色に近い色。まるで世界に一枚紗幕をかけたように、空も建物もすべてが水色だ。静謐なつめたさに、不意に心が凪ぐ。


昼頃。雨足が弱くなったから、散歩に出かける。茶色いレインブーツに足を突っ込み、透明なビニール傘を差して小さな町を歩く。土の湿った匂い。空を見上げれば、灰色の薄い雲が空を覆っていて、ところどころに青空が覗いている。重なり合った雨雲の上、照りつける太陽と青空の広がる景色が頭をよぎる。それはいつかの飛行機の窓際。

駅前の小さな本屋に入り、いつも通りあてもなく気になった本を手に取ってみる。店主は店の奥で新聞を広げていて、日の差さない薄暗い店内を、蛍光灯が頼りなく照らしている。一時間、それかもっと経っただろうか。結局何も買わずに本屋を出ると、いつの間にか雨が上がっていた。外界のあまりの明るさに、つい先ほどまで深い海の底を泳いでいたかのように感じられた。

暑い。お気に入りのシャツが汗で肌に張り付いている。いつもの坂道を登り切り、後ろを振り返ると、背の低いマンションの立ち並ぶ向こうに、入道雲が帯のように連なっていた。その輪郭は青色の空にくっきりと映え、もくもくと膨れた雲の陰影も、春や秋のそれよりもずっと際立って見える。例年ならば夏の予感に沸き立つ高揚を感じていただろう。今年はなぜか、ほんの少しの絶望の味がした。思うように外出ができなくなってから、時間の流れは狂い始めた。桜の春を、新緑の初夏を、十分に生きた気がしないのに、それでもカレンダーはめくられていく。気づけば梅雨も本番で、梅雨時の空は晴れ間の中にときおり夏を忍ばせる。私の体感している時間はあまりにも薄味で心許ないのにも関わらず、外界の時間は私を夏の中へと猛スピードで引きずっていく。


夕方の二階の自室にはやわらかい光が斜めに差し込み、窓の外では再び雲が空を覆い始めていた。それらは時間の経過とともに幻想的な桃色に染まりゆく。夢を見ているのではないか、と思うような夕焼け空だ。いいや、本当に夢であれば良いのに。わるい夢だ。一体いつになったら――と、空に尋ねようとして口を噤む。為す術もなく窓際に立ち尽くしていると、網戸の向こうから雨の匂いが鼻先に届く。世界は、人間の意思など気にも留めず、移り気な空の下に私たちを抱えて進んでいく。


今夜もまた、雨の音が始まる。

英国ミステリの世界 〜『カササギ殺人事件』書評〜

カササギ殺人事件』 アンソニーホロヴィッツ(著)/山田蘭(訳) 創元推理文庫

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画像:版元ドットコムより

王道の英国ミステリと現代ミステリを掛け合わせたストーリーが二巻の小説にぎゅっと凝縮されており、読者のミステリ欲を余すところなく満たしてくれる。本作はアガサ・クリスティのオマージュ・ミステリですが、クリスティのファンもそうではない人も楽しめる力作です。


本作は上巻と下巻で物語のテイストが違うので、それぞれに分けて感想を述べようと思います。


まず上巻は、20世紀中葉のイギリスの田舎町の豪邸で起きた殺人事件に、名探偵アティカス・ピュントが挑むというストーリーです。田舎町サクスビー・オン・エイヴォン、パイ一族とその豪邸、愛の冷めた夫婦、家政婦、遺産、盗まれた毒薬、牧師とその妻、結婚を反対される若いカップル。そして探偵ピュントとその助手ジェイムズ・フレイザー。このほかにもミステリの王道の要素が詰まっていて、思い浮かべただけで興奮してしまうような、ミステリ好きにはたまらない設定の中事件が起こります。本作とアガサ・クリスティの作品両方に言えることですが、このような英国ミステリでは生活の描写や街の描写も多いので、私たち日本人が読むとまるでイギリス旅行に行ったかのような異国情緒を味わえることも魅力の一つでしょう。

そして何よりも私が感動したのは、本作がアガサ・クリスティのオマージュ・ミステリになっているという点です。探偵アティカス・ピュントはドイツ人で、これは作中にもある通り、ベルギー人のポアロをモチーフにした人物設定です。町に一つしかない牧師館に、牧師とその妻が住んでいるという設定は、ミス・マープルシリーズの『牧師館の殺人』を彷彿とさせ、遺産相続の問題が出てくるところも、クリスティのシリーズでたびたび遺産が殺人の動機になっていたことを思い出させてくれました。そして葬式のシーンで出てくるカササギの数え唄はもちろん、『そして誰もいなくなった』に出てくる「10人のインディアン」がモチーフとなっているのでしょう。私はこのカササギの数え唄の部分を読んだ時、思わず声を上げて歓喜してしまいました。本作の描く世界はまさしくアガサ・クリスティの世界であり、筆者がこれからどんな部分でクリスティの作品に寄せてくるのか、これからの展開にとてつもなくワクワクしたからです。


上巻でクリスティの世界を堪能しつつ、さあ下巻で謎解明だ、と思って下巻のページを開くと、登場人物の一覧に今まで登場しなかった人物たちがずらりと並んでいます。そして物語はテイストを変えて展開していきます。


実は、本作の上巻の冒頭は、アラン・コンウェイという作家の書いた「カササギ殺人事件」の原稿を編集者スーザンが読み始める、という場面から始まっています。そして上巻の残りは「カササギ殺人事件」の内容です。下巻は原稿の結末部分が欠落していることに気がついたスーザンが困惑するなか、作家のアラン・コンウェイの死のニュースを受け取る、という場面から始まります。そして欠落した原稿の結末部分を追い求めてスーザンの謎解きが始まるという展開です。

そしてここからは、スーザンがアランの死と消えた原稿の結末部分の謎に迫っていきます。舞台は上巻とはうってかわって現代で、登場人物も一新してしまいますが、上巻の「カササギ殺人事件」の内容と現実の世界の関連が多く、小説を手がかりに現実の謎を解く、という設定がたまらないものとなっています。主人公が探偵ではなく編集者である、という点も視点が新鮮で面白いです。

物語が展開していくなか、アラン・コンウェイが抱えていた作家としての悩みが明らかになっていく場面も印象的でした。作家が本当に書きたいものと世間が求める作品の乖離、という悩みは本作の著者やその他の多くの作家が感じていることなのでしょうか。この部分は本作の中で少し暗い部分でしたが、作家の人生という深いテーマに触れているようで、本作が単純な娯楽小説にとどまらないように感じました。


以上、上巻と下巻の感想を述べてきましたが、本作全体としての良さもあります。表紙にもある通り、本作はアガサ・クリスティのオマージュです。しかし、ミステリをめぐるミステリという下巻の内容によって、この作品は単なるオマージュではなく、筆者独自の発想による新鮮なものとなっています。この作品が世界的に話題になった理由はそこにあるのでしょう。さらに、上巻と下巻で話の内容はガラッと変わりますが、上下巻の内容を筆者が巧みに関連させ、全体として不調和にならず、楽しめる作品となっていることです。豪邸で起きた殺人事件、消えたミステリの原稿、作家の死、とにかく謎に満ちた作品です。そして何より英国ミステリの世界をたっぷりと味わえる点が魅力です。ぜひ手にとって欲しいですし、本作を読んだ後、アガサ・クリスティを読んだことのない方ならぜひクリスティの作品を読んでみてください。私も数えるほどしか読んだことがありませんが、素晴らしい世界が広がっていますよ。