東京大学読書サークルこだま 公式ブログ

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共感/非共感を超えて

作者:大島一貴

 小説を読むとき、映画を観るとき、その他どんなコンテンツでもいいのだけれど、良質な作品の感想を求められたとき、私たちの口からは「○○に共感できて面白かった」というような言葉が出てきやすい。

 そもそも作り手が客の感情移入を企図している場合も多いのだから、それも当然かもしれない。けれども、「共感」の有無をベースに作品を捉えるだけでなく、いわば非共感的な享受の仕方をしてみることで広がる世界もあるはずだ——筆者が文学部で二年間学んできたことのコンセプトを一言にまとめるとすれば、それに尽きるだろう。

    もちろん共感は、他者と関わるときなどの重要なファクターである。しかしそれがすべてではない。「理解はできないが、共感はできる」。「共感はできないが、理解はできる」。とりわけ人々の分断が叫ばれる現代にあって、全肯定でも全否定でもなく、この二つの態度を使い分けることで対話の可能性は開けてくるはずだ……などと言うと、風呂敷を広げすぎだろうか。

 さて、共感は相手の像に自己を同一化しようとすることから始まる。他者の物語に、自分の物語を重ねること、あるいはその逆。宇佐見りん『推し、燃ゆ』の主人公も、「推し」に対してそのような同一化の欲望を抱き、しかも潜在していたそれが徐々に現れる人物として描かれている。

 作品の一行目は、「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。」と始まる。じつは作中、「推し」という言葉のニュアンスは明瞭に説明されることがないのだが(それが結果的に、特に言語化せずとも「なんとなく使える」マジックワードとして人口に膾炙している現状をうまく表してもいる)、この主人公は「推し」に関してファナティックな態度をとらないし、まして一線を越えたいとも思わない。彼女はあくまで有象無象のファンのひとりとして、隔たりを保ったまま愛を送りたいのだ。だから「推し」を「解釈」し、それをネット上の同志へとブログで発信する。あくまで解釈する側に立つのであって、決して共感も同一化も求めない。

 ところが話が進み、主人公や「推し」を取り巻く状況が厳しくなっていくにつれ、「推し」への精神的な同一化、および身体的な同一化を求める様子が見られるようになるのだ。

 そのこと自体の是非は問うまい。ただ、蓋し重要なのは、共感と非共感、距離をゼロにする同一化と距離を取る差異化とのあいだを揺れ動けるだけの余白を作っておくことだ。単一の立場にとどまらずに絶えず距離を操作する、その自由こそを私は人文的な知性と呼びたい。