東京大学読書サークルこだま 公式ブログ

東京大学読書サークルこだまの公式ブログです。部誌『こだま』に掲載している文章などを公開していく予定です。

エッセイ 自分と文学との関わりを振り返る

作者:山下純平 

 

はじめに  ― 1人の読者の声を踏まえて―

    こだまの読者の一人から、次のような意見を頂きました。「文学らしい文章を発表するのもいいけど、部員一人ひとりがどういう人間なのかが伝わってくる文章を読んでみたい」という意見です。それを聞いて確かにその通りだと思ったので、自分と文学との関わりや文学について最近考えていることを少し紹介してみようと思います。


僕の文学遍歴  ―文学好きとの出会いと、やがて自身が文学好きとなったこと―

    僕は中高の頃は文学をほとんど読んでおらず、そもそも国語よりは数学の方に傾倒していました。ですが、当時関わりの多かった同級生に文学好きがいて、自然と文学の話を耳にしていました。文学好きのこだわりの強さに多少閉口しながらも、文学好きの思考の奥深さのようなものをそれとなく感じて、文学というものに対し漠然とした畏敬の念を抱いていました。


    大学に入ってからは、大学生活の目標が見つからないまま漫然と日々を過ごしていました。多少は読書をしているものの文学はほとんど読まないという生活が続いていました。

    大学二年の中頃に、物理を専門とする文学好きの友人と話をするようになり、彼が語った芥川龍之介の生涯の話に感銘を受けました。それ以来、芥川龍之介の小説を読むようになり、他の作家の作品も読み進めるようになりました。

    一度目の大学三年は、自分で文章を書く機会は少なく、日本近代文学を中心に読書をすることが主でした。夏休みにふとしたきっかけで読んだ宮沢賢治の作品に感動し、それ以来宮沢賢治の作品を読み進めて愛好するようになりました。ちなみにこだまに入部したのは冬頃で、国文の友人に声を掛けてもらったことがきっかけです。

    自主留年をして迎えた二度目の大学三年では、少しずつ自分の文章を公開する機会が増えました。文豪たちに憧れるあまり自分も小説家になってみたいと切望するようになっていて、作家気取りで文章を書いていきました。こだまでは、エッセイやら鑑賞文やら小説やら、色んな文章を試してみました。

    現在は、もはや小説家になりたいという思いは色褪せてきています。大学の授業を除くと、そもそも文学を読むことも文章を書くことも少なくなっていますが、今でも文学というものは自分にとって得体の知れない深遠な存在であり続けています。


自分なりの読み方の発見  ―"夏目漱石らしさ"を脳内につくり出すこと―

    近代の文学作品を読み進めていくうちに、ある特徴的な読み方をするようになりました。作家の人間としての姿を浮かび上がらせるような読み方です。その際、一人の作家の作品を読み進めて各作品に共通する表現を見つけるという方法を取っています。これは、専門である国文学の読み方とは異なるものですが、いつもついこの読み方をしてしまいます。

    少し長くなりますが、具体例を紹介します。例えば夏目漱石の作品を読んでいると、「剃刀」という語の前にはたいてい「西洋の」という修飾語が付されていることに気づきます。それも、文脈上は別に西洋が何も関係ないような場面でも、やはり「西洋の剃刀」という表現になっているのです。この現象について、一見何でもないことのようですが、夏目漱石の生涯を参照すると意義深いことのように思われます。

    かなり大雑把にまとめると、漱石は小さい頃から漢文に馴れ親しんでいたのですが、文明開化の時代にあって大学では英文学を専攻します。成績優秀で、後には官費によってイギリスに留学することになりますが、現地で重度の神経衰弱を患います。日本に帰国した後、高浜虚子のすすめで療養のために執筆し始めた『吾輩は猫である』が話題になり、これを機に専業作家への道を進んでいきます。

    こうした夏目漱石の生涯を踏まえると、「西洋の剃刀」という表現は単なる偶然とは思えません。東洋の文化のもとに育ちながら西洋の文学を志向し途中で挫折を経験した漱石という人物と、「西洋の剃刀」という表現とは、互いに響き合っているように思われます。漱石にとって、西洋の文明はまさに剃刀であり、便利ではあるが自他をひどく傷つける代物であっただろう、漱石はその危険を身をもって感じたことだろうと察せられます。だとすれば、「西洋の剃刀」という何気ない表現には夏目漱石らしさが表れていることになり、この表現は夏目漱石という人物像を脳内に構築する上で大いに参考になります。

    このような具合で、複数の作品の共通点から一人の作家の人間像を浮かび上がらせることは、主観的な営みではありますが、そこに楽しみを感じ、様々な作家で試みるようになっています。例えば、芥川龍之介の小説においてしばしば見られる「その全てを話していては、いつになっても話が終わらない。そのごく一部をかいつまんでお話すると、…」というような前置きは、彼の脳内が多彩な考えで満ちていたことをうかがわせる点で芥川龍之介らしい表現です。太宰治の小説の「神妙らしく」「鹿爪らしく」「もっともらしい顔をして」といった副詞の多用は、道化を思い起こさせる点で太宰治らしい表現ですし、彼の小説において服装や表情や動作の描写が多いことは、彼が他者の視線を過分に意識していた人間であったことに通ずるものです。宮沢賢治の童話の「ほんとうの」「まっすぐな」という副詞は、とてもよく似合っている宮沢賢治らしい言葉です。……こういう具合で、僕の勘違いやら思い込みやらも含めて、その作家らしい表現を見つけて、その作家の人物像を形作っていくという読み方を夢中になって行うようになりました。


挫折を経て  ―書物から人間へ―

    以上のように、複数の作品を通して作家らしさを感じ取る読み方をしていて気づいたのは、一人の作家の作品群には数知れないほどたくさんの秩序が広がっているということです。作品を読んでいくにつれて、前に読んだ作品と共通する表現が思いがけず浮かび上がり、息をのむという経験が何度もありました。そうして、一人の作家の作品群の中に豊かで高度な秩序が存在し、広々とした世界が広がっていることを感じるようになりました。

    このことは、大学前半まであまり文学を読むことのなかった僕にとって、衝撃的なものでした。僕がこれまで顧みることのなかった文学という領域には、こんなにも豊かな世界が広がっているのかと驚きました。そして、今まで文学に触れてこなかったことを悔いると共に、今後は文学の世界をどんどん探検しようと思いました。

    文学を読み進めて一人ひとりの作家の世界に浸るということを続けているうちに、やがて自分も小説家になってみたいと望むようになりました。文学の世界に広がる豊かな高度な秩序は、ここにしかないものだ。自分もいつかは豊かな世界をつくり出す側に回ってみたいものだ。それは文学作品を書くことによって実現されるに違いない。そういう思いが徐々に膨らんでいきました。

    そういう考えを経て、自ら文章を書いてみて小説家の真似事をしたり、小説についてもっともらしく語ったりするようになっていきました。ただ、文章を書くことについては、当初思い描いていたような小説を書くことは叶わないままでした。周囲からの反応も、周縁的な事柄についての感想がちらほら見受けられるくらいで、少し興醒めした気分でいました。


    こうしたぼんやりとした挫折を味わいながら、日常生活を送っていて気づくことがありました。僕は文学作品を読むことを通して、作家の各作品に共通する語彙やあらすじや描写や印象などに目を向けてその深遠さに驚いていましたが、文学を潜り抜けてきた視点で日常の世界を眺めると、これはこれで様々な秩序が眼前に展開しているらしいのです。例えば身近な人々の様子を見ても、その表情や声の調子や、発言の内容や口癖や、背後にある問題関心や価値観や気質など、様々な視点から観察し、その都度何か新たに小さな秩序を発見しては興味深いと思うようになりました。一人の人間の中には、無数の秩序がそなわっていて、そこには奥深い世界が広がっているという感想を抱きました。これはどうも僕が文学作品を読んでいる時のよろこびに近いらしいということにも気づきました。

    ちなみに、アフリカには、「ひとりの老人が死ぬことは、ひとつの図書館が燃えてなくなることと同じだ」ということわざがあるそうです。お年寄りの知恵や経験の豊かさを表した言葉であり、味わい深いと感じると同時に、お年寄りのみならず一人ひとりの人間の脳内は一つの図書館に相当するほど奥が深いものだろうと思います。

    また、ニーチェの言葉に「人間は書物よりもはるかに注目に値する」というものがあるようですが、息を吸って味わいたいような言葉だと感じます。

    このような過程を経て、当初僕が文学ならではの奥深さだと思い込んでいたものは、必ずしも文学だけのものではなく、実は一人ひとりの人間の中に備わっているものだと思うようになりました。文学作品には確かに高度で豊かで深遠な世界が広がっているけれど、これは結局のところ一人ひとりの内面に広がる大きな世界そのものを表すのだろう。文学の偉大さは、人間の偉大さに他ならない。こういう考えを自ずと抱くようになりました。

    結局、僕は小説家になることはおろか、ちゃんとした文章を書くこともできないまま今に至っています。文学に夢中になったあの日々は一体何だったんだろうと不思議に思うこともある一方で、文学を読むことが明確な何かにつながらなくてもいいんだ、それで何も問題ないんだと開き直る気持ちもあります。僕の目の前の世界には、無数の小さな秩序で溢れていて、豊かな世界を形作っている。そのことに気付かせてくれたのは、やはり文学という存在だ。文学こそが、自分の好奇心に満ちたきめ細やかな視点を育ててくれて、以前だったら見落としていたような些細な秩序にも目を向けることができ、ささやかな美しさをも愛おしむようになっている。文学を経験したことは、いまの自分の人生を確実に豊かなものにしてくれている。これこそが、自分が文学を読むことを通して得ていた大きな財産だと、自信を持って思うようになっています。

 

おわりに  ―自分の中の”文学”を育てていくこと―

    思いのほか話が長くなってしまいました。以上はあくまでも僕一人の経験にすぎず、皆さまの文学の読み方や文学との関わり方を制約するものではありません。読者の一人ひとりが様々な文学と出会うことを通して、自分の中の”文学”を少しずつ育てていく過程こそが大事なものだと思っています。それは、実際に文学作品につながることもあれば、友人との会話の中でのみ発現するものであったり、はたまた自分の脳内の考えや感情であったり様々な形が考えられますが、やはり一人ひとりが自分なりの”文学”を持っているのだろうと考えています。人の数だけ”文学”の数があると思っています。

    末筆ながら、これまでの僕の話が、皆さま自身の”文学”にとって多少とも参考になるところがあれば幸いです。