東京大学読書サークルこだま 公式ブログ

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無常と古典

無常の世にあって、文学作品はなぜ時空を超える力を持つのだろうと、以前から不思議に思っている。

この世が無常であることは、多かれ少なかれ皆が納得するだろう。栄華栄耀を極めた一族もやがては滅びゆくこと。災害や疫病により、世の中が大きく変動すること。人々も社会も無常にさらされており、万物は流転していく。

だが、文学作品、殊に古典作品は、例外とも言える。たとえば『源氏物語』は、千年もの時を経て現代に伝えられている。古典作品だけは、無常の世における例外のように、時空を超える力を持っているのである。


無常の世にあって、不動の姿を保っている文学作品においては、何が起こっているのだろう。この秘密を考えるにあたって、『徒然草』を題材にしてみよう。

徒然草』は、いろんな章段の中で、人間がやがては死すべき存在であることが喚起され、世の無常が繰り返し語られている。無常観のあらわれた作品と、一応言うことができる。

だが、ここで強調したいのは、『徒然草』には無常観以外の内容が数多く含まれているということである。『徒然草』の中には、実に多種多様な素材が揃えられている。公卿の行動、珍談、住居論や四季の自然、恋愛観、嘘の分析、……。読者が受ける印象も、章段ごとに大きく異なるだろう。当時の習俗を伝える興味深いもの、人生に対する新たな心眼を開かされるもの、滑稽で珍妙なもの、……。とても一言で表すことはできない、豊富で多様な文章が揃っている。


こうした多様さの秘密の一端をうかがい知ることのできる、第二三五段の概要を紹介しよう。主人のある家には、何もよりつかないが、主人のいない空き家には、狐やら梟やら、さまざまな動物が寄り集まってくる。主人がいないおかげで、様々な動物が集まってきて、その場の豊かさが生まれていると言える。鏡についても、事情は似ている。鏡はそれ自身何の色も形も持っていないが、だからこそ、万物の姿を映し出すことができる。

心についても、同様のことが言える。心に主人がいたとすれば、限られた客しか来てくれないだろう。でも、心に主人がいない状態であれば、名前も知らないような多様な者たちが訪れてくれ、心の中が多様なもので満たされるようになる。

以上が第二三五段のあらましだが、ここで語られていることは『徒然草』に広く行き渡っている精神ではないだろうか。『徒然草』を書き綴った兼好法師が、心に定まった主人がいない状態を保っていたからこそ―すなわち、『徒然草』自体に定まった目的や方向性が何もないからこそ、この作品はこれほど多様な内容を包み込む作品となっているのだろう。

もしも『徒然草』が、例えば無常観を伝えるということに固執していて、他の内容を削ってしまっていたら。例えば、数々の珍談―怪物「ねこまた」を恐れる僧侶の話やら、酔狂のために鼎を頭にかぶった人物の顛末やら―これらの珍談は、悉く存在し得なかっただろう。整然とした構成の文章になる代わりに、今のような多様な内容は存在せず、どこか物足りない文学作品となっていただろう。そして、ひょっとすると、現代に伝わることなく散逸していたかもしれない。


多様性と無常の世を生き延びることのつながりを示すべく、無常についてもう少し考えてみたい。先ほど無常の世において万物が流転していく旨を述べたが、文学の領域においても概ね同じことが言える。無常の世にあっては、どれほど強固な主張も、どれほど勢いと権威のある文学も、ふとしたきっかけ―例えば文学の風潮の変化―の影響を受けないとは限らない。そうして、作家が亡くなると共に、その文学作品が徐々に忘れ去られていき、すっかり色褪せてしまうことは往々にして起こり得る。

だとすれば、信頼するに足るものは、一つの力強い主張を表した作品よりも、むしろ無数の小さな主張が集成して一つの作品となったものではないだろうか。時の試練に耐えて諸行無常の世を生き残るものは、あらゆる方向に向かう無数の成分、及びそれらを取りまとめる名状しがたい一種の感情の方ではないだろうか。これらの要素を内包する作品は、たとえ人間や社会が大きく変動しても、そう簡単には揺れ動かない。作品の読み方や注目される点が推移していくことはあっても、作品そのものは魅力を保ち続ける。いつの時代にあっても、その作品は読者の心を揺さぶり奮い立たせるものとなる。気づいたときには、無常の世を生き長らえていく古典作品となっている。

こうした考察を踏まえると、『徒然草』が内包する多様性は、そのまま古典作品としての資質を表すものに他ならない。兼好法師は、一つの目的や方向性に固執せず、豊かで多様な「心にうつりゆくよしなしごと」を差別なく書き綴ったからこそ、『徒然草』は古典作品として成立したのではなかろうか。無常観をあらわすことに固執しなかったからこそ、無常の世にあって生命を保ち続ける古典作品を生み出すことができたのだろうと、そう思えてならない。


さて、ここまで『徒然草』について独断めいた考えを語ってきたが、白状すると、僕はまだ『徒然草』の半分弱ぐらいしか読んでいない。でも、それは恥ずべきことではないと思っている。『徒然草』は、気合を入れて一気に読み通すような堅い作品ではない。手すさびにいくつかの章段を拾い読みするような、そういう読み方の方がふさわしいだろう。今後も気が向いた時に、ぽつぽつと『徒然草』を読んでいきたい。