東京大学読書サークルこだま 公式ブログ

東京大学読書サークルこだまの公式ブログです。部誌『こだま』に掲載している文章などを公開していく予定です。

キャッチボール

一.

僕たちはいつもキャッチボールをしていた。僕が彼と会った時には、どちらから言い出すともなく、公園に行ってキャッチボールをして遊んでいた。ゆっくりとボールを投げてゆっくりとボールが返ってくる、のんびりとしたキャッチボールが好きだった。少し単調で物足りないくらいだったが、二人はいつもキャッチボールをしていた。


その日も、いつもの公園で待ち合わせをした。家の玄関を出て公園の入り口に着いて辺りを見渡すと、短く刈り込みをした草地の上に、彼の姿が見当たった。そういえば、いつも彼の方が先に着いていて、僕が後からやってきていた。彼に向かって手を振り、彼の元に駆けていった。二三言やりとりをした後は、それぞれグローブを身につけ、適度な距離に離れ、キャッチボールを始めた。


いつもの通り、第一投は彼の方からだった。彼の放ったボールはゆるやかな円弧を描き、僕のグローブに吸い込まれるように進んでいき、僕のグローブに収まる。わずかな手のしびれと手応えを感じながら、僕も負けずとボールを投げ返す。やはりボールはなだらかな円弧に沿うようにして進み、彼のグローブに収まる。グローブがボールを収める時の爽やかな音が、彼の周りに軽く響き渡っていた。


何度かボールの往復をした後、ふと僕の投げたボールが横へ逸れてしまった。投げ終えた瞬間に、「ああ、しまった」と思った。彼の左側の草地に転がっていくボールを目で捉えながら、彼は軽やかに走っていき、ボールを拾い上げた。そしてその位置から、僕に向かってボールを投げ返した。力強い送球だった。その間、軽快な足取りで彼は元の位置に戻っていった。


その後も今まで通りにキャッチボールを続けた。ゆっくりとボールを投げては、ゆっくりとボールが返ってきていた。時にはいつもよりスピードの速い球が飛んできたり、こちらのボールが空高くに飛んでいったりといった、ささやかな変化があった。単調ではあるが退屈ではなく、うっすらとした幸福感に包まれながらキャッチボールを続けていた。

 


ふと、僕は空を見上げた。もう日が暮れかかっていて、どろりとした大きな夕焼けが見られた。その輪郭が空に溶け込むようで、まぼろしを見ているようだった。僕が夕焼けに見とれているうちに、彼からのボールが返ってきていた。僕のグローブの辺りに投げられた球であり、グローブに届く直前に気が付いたが、取りこぼしてしまった。ボールが草地の上でわずかに転がり、静止する。僕は「ごめんごめん」と恥ずかしそうに言いながら、足元のボールを拾い上げ、投げ返そうとして彼の方を見やると、どういうわけか、彼の周囲には霧が立ちこめていた。濃淡のある細かい霧が一帯に広がっていて、彼がどこにいるのか見て取ることができなかった。「おーい」と叫んでみたものの、返事はない。それにしても、僕がボールを拾っているほんの一瞬の間に、どのようにして霧が生じたのだろう。あまりに不思議な出来事だったので、しばらくの間は呆然としていた。


やがて、霧はますます深まっていき、僕の周囲にも霧が漂うようになった。辺りは杉林の中のようにしんとしていて、霧が地面の方から立ちのぼっていく。不安を覚えながら息を吸うと、霧を含んだ冷たい空気が体に吸い込まれていく。僕はもう一度、さっきより大きな声で「おーい」と叫んだが、やはり返事は返ってこない。不気味なほどの静寂が辺り一帯を支配している。僕はこの時、彼に対する強い心配の念に貫かれた。霧がさらに深くならないうちに、彼の元に歩み寄り、二人で身を寄せ合わないといけない。僕は急いで彼の元に向かおうとしたが、もはや視界はまっ白な霧に覆われていて、彼の姿どころか自分の足元の草地でさえはっきりと見えない。それでも、さっきまでキャッチボールをしていたんだから、彼のいる場所は大体見当がつくはずだと信じ、さっき彼がいた方に向かっておそるおそる歩き出した。自分がどのくらい歩いたのかわからず不安でならなかったが、一歩一歩慎重に歩いていった。やがて、先ほど彼が立っていた辺りにたどり着いたと思ったが、彼の気配はまるで感じられない。僕は両手をおろおろと伸ばして、自分の手が彼の体に触れることにわずかな期待をかけたが、いつまで経っても彼は現れない。ここでもう一度、お腹にあらん限りの力を入れて「おーい」と叫んだ。叫んだ直後に息切れをするほど大きな声を出したにも関わらず、何も返事は聞こえない。目の前はただ、冷たい霧が一帯を覆っているばかりである。もはや彼の居場所を探る方法は何もないことに気づき、呆然とした。


僕は彼と合流することを諦めて、一人で霧に立ち向かおうとしたが、もはや視界はすっかり霧に覆われていて、歩くことすらままならない。さっきまでのあの燃えるようなどろりとした夕日もどこにも見出すことができない。しまいには、眠気に包まれてしまった。なんとか眠りに落ちまいと、両足を地面に踏ん張って耐えしのいでいたが、どんどん眠気が押し寄せてくる。やがて、陶然とした境地になった。ほどなくして、僕は眠りに落ちていった。

 


二.

再び僕が目を覚ました時、自分が全く見たこともない場所に立っていることに気づいた。先ほどまでの霧は消え去っている代わりに、目の前には見慣れた公園ではなく、黒々とした川が横たわっている。自分は川の手前の岸に立っていて、川の向こう岸に向かって大きな橋が架かっている。木製の橋に塗られた赤色が暗やみの中に浮かび上がっている。橋の左右の欄干には一定の間隔おきに提灯が並んでいて、向こう岸にまで続いているようだ。提灯以外には光がほとんどなく、川の地平線近くに浮かぶ舟の灯火が遠くにぼんやりと見えるくらいで、あたりは暗やみに包まれている。


岸から橋の上へと足を踏み出してみると、橋の上に一列の行列ができていることに気づいた。赤々とした橋の上を一列に並んでいる人々の姿が、両側の提灯に照らし出されていた。人々は自分に背を向けるようにして並んでいる。彼らはややうつむき加減で、互いに会話を交わすことなく、列をなしていた。これは一体何の行列なのか、行列の一番後ろの人に訊ねてみようかとも思ったが、行列に並んでみればいずれわかることだろうと思い、自分もその列に加わることにした。不安な気持ちもあったが、しばらくして自分の後ろにどんどん人が並んでいくのを見ると、今さら列を抜け出そうという気にもなれず、このまま行列に並ぶことにした。


行列が少しずつ前に進んでいって、橋の真ん中あたりに来た時に、川の向こう岸に門がそびえ立っているのが見て取れた。石でできたその門は、二本の門柱が暗い空を脅かすように立っていて、門扉が開け放たれている。門柱のふもとには篝火が焚かれていて、この門を照らし出している。門柱のあたりははっきりと見て取れるのに対し、門の上の方はほとんど闇に覆われていて、わずかにおぼろげな輪郭が浮かび上がっているばかりだ。
そして、目を凝らして見ると、門のそばには二人の門番らしき人物が控えている。温和でがっしりとした体格の人物と、背が高く精悍な顔つきの人物だった。どうやら僕が並んでいたのは、この門に入るための行列だったらしい。門のあたりを観察していると、行列の先頭まで来た人は、二人の門番と身振り手振りでやりとりをした後、門の中に入ることを許可されて、門の中を通り抜けていく。行列は門の中に吸い込まれていくように見えた。

 


僕が観察を続けているうちに、また行列の先頭の人が門の中に入っていき、行列が一人分前に進んだ。そうして次に先頭に来た人物の横顔が、篝火に照らし出されて、その四五人ほど後ろにいる僕の立ち位置から見えるようになった。その人物の顔は、まぎれもない彼のものだった。僕は彼の姿を見かけて、声を掛けた。はじめに「おーい」と叫んだ時には、少し上ずった声になってしまったが、二度目に大声で「おーい」と叫んだ時、彼はようやくこちらを振り向いてくれた。穏やかな微笑を浮かべているものの、それはどこか諦めがかったようなしずかな微笑だった。彼は僕の方を見て微笑んでいたが、自ら声を発することはなかった。しばらくの間僕の顔を見つめていたが、やがて真顔になり、唇を引き結んできりっとした表情になった後、何か一言呟いた。でも、僕にはどういうわけか何の音も聞こえなかった。なに、と訊ねようとしたが、彼はやがて前に向き直り、二人の門番の間を通って、門の中へと入っていった。彼のたくましい後ろ姿と決然とした歩き方を前にしながら、僕はそれ以上何も声を掛けることができず、その場に佇んでいた。

 


やがて、僕が行列の先頭にたどり着いた時、二人の門番は同時に空を見上げた。それにつられて僕も空を眺めると、一つの赤く巨大な星があらわれて、二三度瞬いた後、ふっと消え去った。門番たちは顔を見合わせて、同時に頷いた後、すぐに門扉を閉めはじめた。僕は突然の出来事に混乱しながらも、あわてて自分も門の中に入ろうとして駆け込んだが、門番のうち一人が僕の両肩をつかんで身体を取り押さえて、身動きが取れなくなった。その間にもう一人が扉を押していた。門扉はぎいぎいと音を立てながら、ゆっくりと閉まっていった。僕はなす術もなく、門が閉ざされていく様子をじっと見守っていた。やがて、がたんと音を立てて門は封鎖された。あっという間の出来事だった。


門番二人は、暗い門の扉を背後にしながら、行列に並ぶ人々に向かってこう呼びかけた。
「今日はここまでです。すでに門は閉まっています。いま行列に並んでいる方々は、橋を渡って川の向こう岸に行き、しばらく進んだところにある下り階段を降りて、元の場所に戻ってください」


行列に並ぶ人々は、嘆息を漏らしたり青ざめた顔をしたり、あるいは安堵の表情を浮かべたりと、さまざまな反応をしていたが、やがて橋を引き返していった。元々知り合い同士がいなかったのか、互いに話を交わすことはなく、黙々と歩いていた。皆が橋の上から退散していき、気づいた時には橋の上に残っているのは僕一人となっていた。


僕はどうしても諦めきれず、門番に向かってこう訴えかけた。
「僕の友人がついさっき、門の中に入っていったんです。どうか、僕も一緒に行かせてください。もう一度門を開けてください」
丸い顔をした一人の門番が、申し訳ないという気持ちをにじませてこう答えた。
「我々は天からの指令に従って、門を開け閉めすることしかできません。指令に反した行動をとるわけにはいきません」
天の指令というのは、さっき空に一瞬だけ現れた赤い星のことだろうか。僕は信じられないといった口調で、繰り返し懇願した。
「門を開けてください。どうか、お願いします」
もう一人の精悍な顔つきをした門番が、教え諭すようにこう言い聞かせた。
「僕たち人間には、どうすることもできないんだよ」


僕は思わず泣き出して、門番二人の間を通り抜けて門の目の前に駆け寄り、どんどんと扉を叩いた。次には両手で扉を掴んで、無理やり門を開けようとした。けれども門はびくともせずに、僕の前にそびえ立っている。僕はますます激しく泣きながら、門に向かって体当たりをしたが、あっけなく跳ね返された。懲りることなく、今度は渾身の力を込めて門に向かって殴りかかったが、やはり簡単に押し返されてしまった。硬い扉を殴ったせいで、手を痛めてしまった。門はしずかに暗やみの中にそびえ立っていた。僕はへなへなと地面に倒れ込んでしまい、肩を震わせながら声をあげて泣きじゃくった。門番二人は、僕をじっと見守っていた。


ようやく僕が泣くのをやめて、しきりに鼻をすすっていると、門番が僕の両肩に手をかけて、僕の方をまっすぐに見ながら穏やかに話しかけた。
「君の友人に対する思いの大きさはよくわかったよ。立派なもんだ」
僕は門番の顔を見上げ、恨めしそうに門の方を睨んでいた。そこに、もう一人の門番が、しみじみとした話しぶりでこうつぶやいた。
「なんだか昔の俺に似ているな。門を見るその目が、昔の俺とそっくりだよ」
昔を懐かしむようなその声を耳にして、何と答えていいのかわからず、僕はただうつむいていた。

 


しばらく時間が経った頃、ふと辺りに霧が立ち込めた。それを見て取った門番たちは、僕に向かってこう告げた。
「この辺りが霧に覆われてしまわないうちに、早く家に帰るんだよ」
僕は、公園でキャッチボールをしていた時に突然発生した霧のことを思い出し、ぞっとした。
もう一人の門番が、こう説明を付け加えた。
「橋を渡って向こう岸まで行くと、下り階段があるから、そこを降りるんだ」


僕はおとなしくその言葉に従うことにした。でも、この二人は霧から逃げ出さなくていいのだろうかということが気になった。
「ところで、お二人はこれからどうされるんですか」
門番二人は、思ってもみないことを聞かれたという様子で、ははっと笑った後、こう答えた。
「俺たちは門番だもの。これからもずっと、この門を守っていくんだよ」「そうそう。俺たちのことなんて気にするな」
からりと明るい二人の発言を聞いて、感心したようなぼんやりとした表情をしていたが、やがて霧が少しずつ濃くなってくるのを見て、門番たちは厚い手の平で僕の背中を押し出した。
「じゃあな、元気でな」「気をつけて帰れよ」


ありがとうございます、と力なくつぶやいて、二人から背中を向けてとぼとぼと歩き出した。後ろを振り返ると、霧の向こう側で二人が大きく手を振っているのが見えた。


橋の上から川の方を見ると、暗やみが川の上に広がっている。流れのほとんどない、不気味なほど静かな川だった。橋を歩く自分の足音に耳を傾けながら、とぼとぼと橋を歩いていった。


やがて霧が深まってきて、川の向こう岸がかろうじて見分けがつくほどになった。川面はすっかり霧に覆われている。僕はぞっとして、全速力で橋の上を駆けだした。じわじわと広がりゆく霧から逃げるようにして、一心不乱に走り続けた。


ようやく向こう岸にたどり着いた時には、視界がまっ白だった。その中にかろうじて下り階段を見出し、必死になって階段を駆け降りた。この階段がどこまでも続いているように思われて、恐怖に包まれていたが、あらゆる感情を振り切るようにして階段を下り続けた。やがて、最後の一段にまで達したようで、僕は空に放り出された。どうやらこの石の階段は、空中に浮かぶものであったらしい。校舎一階分くらいを真っ逆さまに落下した後、どさりと地面の上に倒れ込んだ。僕は地面に身体を打って、しばらくの間は痛みに喘いでいた。やがて痛みが徐々にやわらいでいくと、今度は徐々に眠気が押し寄せてきた。自分がいまどこにいるのかもわからないまま、僕はしずかに眠りに落ちていった。

 


三.

再び僕が目を覚ました時には、自分が公園の入り口前の道路に倒れていることに気づいた。頭上には、朝の爽やかな空が広がっている。もう夜が明けたらしい。僕が昨日必死に駆け降りていた石の階段は、もう何の痕跡もとどめていない。門の向こう側に入ってしまった彼も、僕を門の手前に留まらせた門番たちも、どこにも見当たらなかった。


ぼんやりとした頭で公園の入り口を通り抜け、公園の中へと入っていった。今度はもう、彼の姿は見当たらなかった。その代わりに、僕のグローブと彼のグローブが草地の上に放り出されていた。キャッチボールをしていた時のボールが、僕のグローブの中に収まっていた。短い草をざくざくと踏みながら、僕は自分のグローブの元へと向かった。そしてグローブを手に付けて、退屈そうにボールを上に放り投げてはグローブで捕るということを何度か繰り返していた。でも、すぐに止めてしまった。僕は二人のグローブを重ね合わせてその上にボールを載せ、家に帰ることにした。公園の入り口を潜って外に出て、家に向かってとぼとぼと歩いていった。