連載 「『注文の多い料理店』の謎を解く」 第二回 紳士たちはなぜ扉の指示のあやしさに気付かなかったのか
はじめに
この連載は、宮沢賢治『注文の多い料理店』の中にひそむ謎を突き止め、その謎について探求していこうという文章です。今回のテーマは、「紳士たちはなぜ扉の指示のあやしさに気付かなかったのか」です。
お店の指示に忠実に従う紳士二人
さっそく本題に入ります。紳士二人が、扉の指示書きをあまり疑うことなく、一つ一つ律儀に守っていることについて考えてみたいと思います。
紳士二人は不思議な店の中をどんどん進んでいきます。すると、扉がたくさん設置されていて、それぞれにはお店からのメッセージや指示が書かれています。その一部を紹介すると、例えば「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください。」という扉のあと、次のような言葉が書かれた扉につき当たります。「注文はずいぶん多いでしょうがどうかいちいちこらえてください。」 ふつうの店では見られないような、あやしい指示です。これを読んで、一人の紳士は「これはぜんたいどういうんだ。」と顔をしかめますが、もう一人が次のように切り返します。「うん、これはきっと注文があまり多くて、したくが手間取るけれどもごめんくださいと、こういうことだ。」結局、はじめの紳士はこの言葉に納得し、はじめに抱いた違和感をこれ以上考えることなく店の奥へと進んでいきます。
このように、少し変わった文言を見て、一人の紳士はその内容を怪しんでいるものの、もう一人の紳士がお店に対して好意的な解釈をしてみせて、それで二人とも納得して次の扉に進んでいく、という構図が、これから先何度も繰り返されていきます。例えば、〈髪を整えて、はき物の泥を落としてください〉という指示に対しては、〈よほど偉い人たちが来ているんだ〉という解釈を与えています。
中には、こんな解釈の仕方もあります。店の中をさらに進むと、「ネクタイピン、カフスボタン、めがね、さいふ、その他金物類、ことにとがったものは、みんなここに置いてください。」と書かれた扉が現れるのですが、二人は即座にこう反応します。「ははあ、何かの料理に電気をつかうと見えるね。金けのものはあぶない。ことにとがったものはあぶないとこう言うんだろう。」この解釈を思いつくのは、逆にすごいと思うほどです。眼鏡をはずしたりするというのは、かなりあやしい指示ですが、二人はわざわざ自分からお店の味方をするような解釈をしています。こうした指示は、普通のお店では見られないはずであり、紳士二人もそのことは今までの経験を振り返ればわかったはずですが、二人は過去の経験を全く参照していないようです。それで、自分たちが初めに感じた、「この店は自分たちを歓迎してくれている、良いお店だ」という信念を、そのままずっと貫き通しているようです。
こうして、扉の指示を一々忠実に守って、どんどん店の奥に進んでいった二人でしたが、五枚目の扉の次の言葉を見たときに、ようやく異変に気づきます。「いろいろ注文が多くてうるさかったでしょう。お気の毒でした。もうこれだけです。どうかからだじゅうに、壺の中の塩をたくさんよくもみ込んでください。」二人のこの時の反応は、次の通りです。
…こんどというこんどは二人ともぎょっとしてお互にクリームをたくさん塗った顔を見合せました。
「どうもおかしいぜ。」
「ぼくもおかしいとおもう。」
「たくさんの注文というのは、向うがこっちへ注文してるんだよ。」
「だからさ、西洋料理店というのは、ぼくの考えるところでは、西洋料理を、来た人に食べさせるのではなくて、来た人を西洋料理にして、食べてやる家、とこういうことなんだ。これは、その、つ、つ、つ、つまり、ぼ、ぼ、ぼくらが……。」がたがたがたがた、ふるえだしてもうものが言えませんでした。…
ここに至って初めて、自分たちはこのお店に今まで騙されており、自分たちはこれからお店の人々に食べられてしまうのだということに思い当たるのです。最初にこのお店を信頼しきっていた彼らは、途中のあやしい指示を見ても、結局その指示を好意的に解釈して奥に進んでいっていましたが、最後の明らかにおかしな指示を見て、ようやく事態の異常さに気づいたのです。この段階で、今までの指示がそういえば怪しかったということも、想起されるようになっています。
以上紹介した指示の中には、様々なあやしい言葉がありました。ですが、二人の紳士は、明らかにおかしな言葉を除くと、目の前の言葉が正しいもの・適正なものであると思い込み、信じてしまう傾向があったようです。
すぐにだまされる人たち
先ほど述べた、紳士の二人の反応は、不思議なものです。目の前の言葉の正しさを信じようとする傾向は、彼らに限らないでしょうが、そうはいっても〈顔中にクリームを塗ってください〉という指示にまで従ってしまうのは、さすがに行き過ぎだろうと思います。特殊な反応だと言ってよいでしょう。
ですが、このような不思議さは、この作品に限ったことではありません。『注文の多い料理店』ほど明瞭ではないものの、同種の不思議さは宮沢賢治の他の作品の中にもやはり見出せるものです。
『双子の星』のチュンセ童子とポウセ童子
続いて、『双子の星』という作品を紹介します。この作品は前半と後半に分かれており、それぞれが一応独立した話となっています。後半において、二人の童子(双子の星)は箒星の陰謀により、天上界から脱落してしまい、海の底に沈められてしまいます。ここで注目したいのは、二人の童子が、箒星にいとも簡単にだまされてしまっているということです。
この作品の主人公は、作品のタイトルにもなっている双子の星です。
天の川の西の岸に小さな小さな二つの青い星が見えます。あれはチュンセ童子とポウセ童子という双子のお星様でめいめい水精でできた小さなお宮に住んでいます。
チュンセ童子とポウセ童子は、毎晩、夜から朝にかけて、「そらの星めぐりの歌」に合わせて一晩中銀笛を吹き続けています。これが、王様から仰せつかった二人の役目です。
ある晩、チュンセ童子とポウセ童子の元に箒星がやってきます。笛を吹くのをやめて、旅に出ようと誘いかけます。二人はためらい、〈旅に出ることは、王様のお許しが出ないはず〉とこたえますが、箒星は二人をけしかけます。
「心配するなよ。王様がこの前俺にそう云ったぜ。いつか曇った晩あの双子を少し旅させてやって呉(く)れってな。行こう。行こう。(後略)」
王様の許可についての、彼らのやりとりのうち、セリフの部分のみを抜粋します。
ポウセ童子「チュンセさん。行きましょうか。王様がいいっておっしゃったそうですから。」
チュンセ童子「けれども王様がお許しになったなんて一体本当でしょうか。」
彗星「へん。偽(うそ)なら俺の頭が裂けてしまうがいいさ。頭と胴と尾とばらばらになって海へ落ちて海鼠(なまこ)にでもなるだろうよ。偽なんか云うもんか。」
ポウセ童子「そんなら王様に誓えるかい。」
彗星「うん、誓うとも。そら、王様ご照覧。ええ今日、王様のご命令で双子の青星は旅に出ます。ね。いいだろう。」
二人「うん。いい。そんなら行こう。」
二人は少し不審に感じながらも、結局は箒星の言葉を信じてしまい、箒星のマントに乗って、旅に出てしまいます。
でもこれは読者の予想通り、箒星の策略でした。チュンセ童子とポウセ童子の住んでいるお宮から遠く離れたところに来た頃、箒星は態度を豹変させ、二人を吹き落とします。二人はまっさかさまに落下していき、海の中に矢のように落ちていきます。(海に沈んだ二人がその後どうなっていくかについては、ここでは割愛します。)
さて、『双子の星』のチュンセ童子とポウセ童子は、箒星の言葉にいとも簡単にだまされてしまっています。〈王様が箒星に、そのような許可を与えるはずがない〉ということは、冷静に考えればわかったことだろうと思いますが、二人は目の前の箒星の言葉が正しいものと信じ込んでしまって、箒星に付いていき、やがて海の底に沈められたのです。素直すぎる二人の童子の身に起こった、悲運な出来事です。
『オッペルと象』の象
続いて、『オッペルと象』という作品における白い象のふるまいを軽く紹介します。オッペルたちの仕事場に、のこのことやってきた白い象は、オッペルにうまく言いくるめられて、仕事場にずっと滞在することになります。そして、特に予告もなく、体に鎖や分銅を付けさせられ、肉体労働を朝から夕方までさせられるはめになります。オッペルに騙されたと言ってよいでしょう。
ですが、白い象の方はと言うと、自分が肉体労働を割り当てられているという事実にあまりぴんと来ていないようで、「ああ、かせぐのは愉快だねえ、さっぱりするねえ。」なんて口にしながら、うれしそうに仕事をしています。オッペルの悪意なんてものを全く考えている気配はありません。オッペルが白い象に語り掛けた、「ずうっとこっちにいたらどうだい。」という言葉は、純粋な善意により発せられたものだということを信じ切っているように見えます。
目の前の言葉を信じ込む傾向
どうも各作品に共通しているのは、目の前の言葉に対する姿勢であるようです。紳士二人も含め、彼らは、目の前の言葉が正しいものと、無条件に信じてしまう傾向があるようです。過去の経験を考え合わせたら、その言葉の怪しさに気づいてしかるべき場合が多いですが、彼らの意識は目の前の言葉にのみ集中しています。彼らは、目の前でその言葉を発する人がいること、あるいは目の前にその言葉が書かれていることが、その言葉が真であることの十分な理由であるというような振る舞い方をしています。言葉の背後に悪人がいることなど考えも及ばず、その言葉を書いた人たちの善意を信じて、目の前の言葉を受け入れているのです。
目の前の言葉を信じ込むこと自体は、そこまで不思議ではありませんが、彼らの場合、その程度がかなり高いようです。こうした現象は、『注文の多い料理店』、そして宮沢賢治の童話全体の上に横たわる、大きな謎の一つと言えそうです。
一つの言葉をそのまま信じ込むという傾向は、童話作品においては良い方向に働くことがしばしばあります。この傾向のせいで誰かに騙されてしまうことはあるものの、おおむね登場人物の無邪気さや純粋さを高めるような役割を果たしているように思われます。
ただ、ここで考えを進めて、もしもこうした童話作品をつくり出した賢治自身も、似たような傾向を持っていたとしたら、どうでしょう。この傾向は、賢治の人の良さや純粋さにつながったという側面も確かだろうと思いますが、そのせいで、相手にだまされてしまうこと、信じる必要のない言葉を信じてしまうこともそれなりにあったのではないか、と推察されます。
賢治自身のそうした傾向についての、直接の根拠には何も出会えていないのですが、賢治の純粋で不器用でひたむきな一生を考え合わせると、やはり賢治にも同じような傾向が見られたのではないかと思えてなりません。
僕と、宮沢賢治
と、このあたりで、話題は宮沢賢治の童話から僕自身の経験へと移り変わります。実は僕自身にも、同じような傾向の心当たりがあるのです。ここからは、脱線になりますが、僕の二つのエピソードを語りたいと思います。
エピソードその一 「乗ってええで」
大学一年の頃、友人の家に向かうべく、僕も含め三人で歩いていたときのことです。三人は、平坦な道を歩いていました。一人が自転車を押して歩いていて、もう一人と僕は徒歩です。道を歩くのに、明らかに自転車がじゃまになっています。「歩いてくればよかったのにな」と言い合っていました。
いまの道がゆるやかな坂道にさしかかった頃、関西出身のその友人は、ふと僕に自転車を渡しました。「乗ってええで」。僕は意外な援助を受けたというような顔をして、穏やかな口調で、「ああ、ありがとう。」と言いました。とはいえ、坂道なので、自転車を乗るわけにはいかず、僕は自転車を押して歩き始めました。その様子を見た友人はすかさず、「いや、『ありがとう』ちゃうやろ!」。もう一人の友人は、少し離れたところで苦笑いをしていました。
坂道の直前で友人が僕に自転車を渡したのは、僕のためを思ったからではなく、単にふざけてそうしただけでした。つまり、友人のボケということです。けれども、当時の僕はそのことに全く気づいていませんでした。本来ならば僕が「いや、なんで今渡すねん!」などとツッコミを入れるべきところを、僕が何にも気付かなかったせいで、逆に僕が「いや、『ありがとう』ちゃうやろ!」とツッコミを受けることになってしまったのです。
このように僕は、目の前の言葉がおかしいものだということに気付かず、そのまま受け入れてしまう場合がしばしばあります。このエピソードの場合だと、〈自転車に乗っていいよ〉という言葉が、冗談だということに気づかず、相手の親切心によるものだと考えてしまう傾向があるようです。もちろん、今こうして文章を書いている時は、そのおかしさにちゃんと気づいているのですが、いざそうした言葉を前にすると、自分でも不思議なぐらい、ころっと信じてしまいます。
エピソードその二 ルービーを求めて
次のエピソードは、大学三年の夏休みのことです。(ちなみに、いま僕は二度目の三年生なのですが、ここで話すのは一度目の三年生のときの話です。)一、二年のクラスの仲の良い友人たちと久しぶりに集まった日がありました。一人暮らしをしている友人の家に、夕方頃集まり、夕食を食べたりお酒を飲んだりしながら映画を観ようということになりました。
集合する前に、僕が希望する人のお酒を買っていくことになり、グループLINEで次のようなやりとりを交わしました。僕「ほしいお酒があったら言ってな」友人「ルービー」僕「りょうかい」。
僕は快諾をしたのですが、ここで困ってしまいました。いったい、ルービーとはなんだろう。まったく、聞いたこともないな。ここで、僕に「ルービー」を買ってきてほしいと頼んだ友人は、ダンスサークルに所属し、国際系の活動にも関わっている、社交的で快活な友人です。流行にも敏感です。僕が知らないだけで、世間ではいま「ルービー」というものが流行しているのだろうか。そうだ、きっとそうにちがいない。
お店に行けばわかるだろうかと思い、友人の家の最寄り駅にあるコンビニに立ち寄り、お酒コーナーの棚を一通り見渡したのですが、ルービーは見当たりません。
困ってしまって、googleで「ルービー」と入力し、画像検索をしました。すると、検索結果の一覧に、「ルービー」なるものがいくつか出てきました。やっと見つけたぞ、と喜んだのもつかの間、これらはどれも、一年前ぐらいに流行った一つのドリンクを表しているらしいということが判明しました。どうやら、今は販売が終了しているらしいのです。
続いて、「まいばすけっと」に入りましたが、やはり商品棚のどこにもルービーは置いていません。このままだと、友人の依頼に応じることができなくなってしまうのか…。しかも困ったことに、その時すでに集合時間が近づいていました。これ以上お店を探していると遅刻が確定してしまいます。
ぼくはルービーを探すのをあきらめて、とぼとぼと集合場所に向かいました。
他のメンバーはすでに集まっていました。僕は、〈ルービーを買ってきて〉という依頼をした友人と、次のような会話をしました。
「久しぶり!」
「久しぶり~。あ、お酒買ってきてくれたんだ」
「うん、でもごめん、ルービーが見当たらなくて。けっこう探したんやけど…」
すると、その友人は、けろっとした口調で、
「ああ、あれビールのことだよ?」
僕は一瞬、はっとしたような表情をした後、今までのさまざまな疑問が一気に氷解して、納得したような表情に変わり、
「ああ、そうやったんか……。やっぱりな、なんかおかしいなって思っててん(笑)」
そして、これまでのいきさつを一気に話しました。ルービーと言われても何も心当たりがなかったこと、お店で探しても見当たらなかったこと、ネットで調べたところ、一年前ほどに「ルービー」という飲み物が流行っていたけれど、今は売っていないらしいとわかったことなどをすべて伝えました。そして、googleの画像検索で、たくさんのルービーの写真が並んでいるスマホの画面をその友人に見せていました。
その友人は、ははっと笑って、
「ルービー探してくれてたんだね」
僕は寂しそうに笑った後、
「いやあ、自分で自分が悲しくなるわ…」
友人は、何も発言を差し挟めないといった様子で、ただ曖昧な苦笑を顔に浮かべていました。
さて、思いのほか長くなってしまいましたが、このエピソードもやはり、僕の認知の傾向を示唆しているように思われます。ルービーというのは、友人が冗談で言った言葉であり、正体はただのビールです。それなのに、僕はそのことに全く思い当たらず、「ルービー」という言葉がそのまま正しいものだと思いこんでしまいました。
しかも、付言すべきこととして、実はその友人はふだんからビールが好きでよく飲んでいたのです。また、以前に同じような状況で、ビールを頼まれて僕がビールを買ってきたこともありました。そうした過去の経験を参照すれば、「ルービー」がビールを表すものだということを見抜くのは、そんなに難しいことではなかったはずです。なのに、どういうわけか、僕は目の前に提示された「ルービー」という言葉に対する信念から抜け出すことができず、ルービーを求めてあちこちをさまようことになってしまいました。
僕の〈目の前の言葉を信じ込む傾向〉と、宮沢賢治
以上二つのエピソードが示唆しているのは、僕も賢治の作品中の人物と同様、「目の前の言葉をそのまま信じ込む」という傾向がかなり大きいということです。彼らの傾向と厳密に同じものと言えるかどうかは確信が持てませんが、何かしら共通するところはあるように思っています。仮に僕が何かの拍子に「注文の多い料理店」に迷いこんだら、僕もやはり紳士二人と同様にお店側にだまされて、扉の指示にいちいち従い、お店の奥までどんどん進んでいっていたかもしれません。いまこの文章を書いている時の自分は、「いや、さすがにそんな簡単に騙されることはないはず…」と思っているのですが、いざ店に入り、店の指示書きを前にすると、やっぱりころっと騙されてしまって、しまいには体中にクリームを塗ったり、お酢を頭に振りかけたりしはじめていたかもしれません。…
そこから、ひょっとしたら、宮沢賢治は僕と似たような人間だったのではないか、という予感が、頭の中を貫きました。もちろん、厳密なことを言えば、作品の登場人物と作家とを混同してはいけないという点をはじめ、いくらでも反論の余地はあるのですが、やっぱり賢治は自分と同じような人間だったんだという気がしてなりません。驚きと喜びとを大きく感じる一方で、上の二つのエピソードのような場面で僕が感じていたような孤独や寂しさを、賢治も僕と同じように味わっていたのだろうかと思うと、少しばかり憐憫の情も感じられます。
今までの話の整理
ここまでの話を、一度整理しておきます。
『注文の多い料理店』において、紳士たちは、いくつもの扉を開けて、どんどん奥へ奥へと進んでいっていることを確認しました。彼らは、扉の指示書きがおかしなものであるにもかかわらず、一つ一つその指示に従い、店に騙されてしまったのでした。そして、こうした彼らの行動は、彼らが目の前の言葉だけに意識を集中させて、その言葉が正しいと思いこむことに由来するようだということを述べました。
このような傾向は、紳士たちのみならず、他の作品の人物たちにもしばしば見られます。先ほど例を挙げたのが、『双子の星』のチュンセ童子とポウセ童子、そして『オッペルと象』の白い象でした。
このような、目の前の言葉の正しさを信じこむ傾向、そのことで簡単に騙されてしまう傾向を指摘した後、僕自身のエピソードを二つ紹介しました。そして、この点において、宮沢賢治は僕と同じような人間だったのではないかという直感についてお話ししました。
ここで考察が止まってしまうと、僕のただの自己満足になってしまいそうですが、実はまだ続きがあります。この傾向は、賢治の文学のどこにつながるものなのか、さらに考察すべきことがあります。
その際、一つ大胆な仮説を採用することにします。宮沢賢治自身も、同種の傾向を持っていたという仮説です。いくつもの作品に、こういう人物が現れるということは、作者の宮沢賢治自身もひょっとしたら似たような傾向を持っていたのかもしれない、という考え方によるものです。
この仮説は、検証しようとするとかなり大変ですが、ここでは思い切ってこの仮説を認めてしまいます。この仮説の上に立つと、どのような風景が見渡せるようになるのでしょうか。
一つの言葉から、物語が生まれる
少し寄り道をします。
宮沢賢治の童話を読んでいて、おもしろいなと思うことがあります。それは、何気ない一つの言葉から、一つの物語の成立につながっているような現象です。いくつか例を紹介しようと思います。
『どんぐりと山猫』
まずは、『どんぐりと山猫』という作品です。この作品では、一郎という主人公が、裁判長である山猫の依頼を受け、どんぐりたちの裁判に立ち会っています。ここで、どんぐりたちは、自分たちのうち誰が一番えらいどんぐりかについて、次のような言い争いをしています。
「いえいえ、だめです。なんといったって頭のとがってるのがいちばんえらいんです。そしてわたしがいちばんとがっています。」
「いいえ、ちがいます。まるいのがえらいのです。いちばんまるいのはわたしです。」
「大きなことだよ。大きなのがいちばんえらいんだよ。わたしがいちばん大きいからわたしがえらいんだよ。」
「そうでないよ。わたしのほうがよほど大きいと、きのうも判事さんがおっしゃったじゃないか。」
「だめだい、そんなこと。せいの高いのだよ。せいの高いことなんだよ。」
「押しっこのえらいひとだよ。押しっこしてきめるんだよ。」もうみんな、がやがやがやがや言って、なにがなんだか、まるで蜂の巣をつっついたようで、わけがわからなくなりました。
ちっちゃなどんぐりたちが、口々に言い合いをしているのですが、このうち〈背の高いものが一番だ〉というセリフに注目してみてください。これはどこか、「どんぐりの背比べ」ということわざを思い起こさせるものです。ひょっとしたら宮沢賢治は、「どんぐりの背比べ」という言葉を、ただ人間世界の出来事を表す比喩として捉えるのではなく、その言葉が指し示す内容そのものを思い浮かべていたのかもしれません。つまり、「どんぐりの背比べ」という言葉を、平凡な者同士の争いを表す語として受け止めのではなく、実際にいろんなどんぐりたちが背比べをしているところをついつい思い浮かべてしまったのかもしれません。どんぐりたちが背の高さや、他にも大きさや丸さなど様々な点でお互いに競い合っている場面を想像し、それが『どんぐりと山猫』におけるどんぐりたちの裁判、ひいては『どんぐりと山猫』という物語の成立につながったのかもしれません。
ちなみに、賢治は二十八歳の時にイーハトヴ童話『注文の多い料理店』を刊行しています。これは、『どんぐりと山猫』も含んだ童話集ですが、その序文で、「ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。」としみじみ語っています。この言葉は、『どんぐりと山猫』の上のような場面において、まさにぴったり当てはまっているように思います。
『さるのこしかけ』
続いては、『さるのこしかけ』という作品です。主人公の楢夫が「さるのこしかけ」という白いきのこを眺め、小猿たちの姿を想像していると、ほんとうに小猿があらわれて、楢夫を小猿たちの世界へと誘い込んでいくという場面が冒頭にあらわれます。
この作品では、「さるのこしかけ」というきのこを眺めた楢夫は、何の違和感もなく「これは小猿たちが腰かけるものだ」と思いこんでおり、果たしてその後小猿たちが姿を現していますが、これはもちろん賢治の創作によるものです。「さるのこしかけ」というのは本来、猿とは何の関係もないサルノコシカケ科やその近縁のきのこの総称です。
以降は僕の推測ですが、賢治はおそらく「さるのこしかけ」という名称を、ただきのこの名称を表す言葉として受け取ることができず、思わず実際に猿たちがそのきのこに腰掛けているところを想像してしまったのではないでしょうか。その想像が『さるのこしかけ』の最初の部分の場面につながり、そこから『さるのこしかけ』の物語が生まれたのかもしれません。楢夫のセリフの中に見られる、「ははあ、これがさるのこしかけだ。けれどもこいつへ腰をかけるようなやつなら、すいぶん小さな猿だ。そして、まん中にかけるのがきっと小猿の大将で、両わきにかけるのは、ただの兵隊にちがいない。…」という思索は、そのまま賢治自身の思索をあらわすものだったのかもしれません。
『カイロ団長』
最後に、前回の連載でも紹介した『カイロ団長』について、簡潔に紹介しておきます。この作品では、とのさまがえるの経営する酒屋にあまがえる三十匹がやってきて、とのさまがえるにおだてられ、「舶来のウエスキー」をたくさん飲んでしまいます。その後、お会計を済ませるお金がなかったため、彼らは弱みを握られ、とのさまがえるの家来にさせられてしまいます。そして彼らは、単調な仕事を朝から夕方までさせられるようになります。
ここで注目したいのが、「とのさまがえる」と「あまがえる」という名称です。これらはカエルの名称にすぎないものですが、ここでもやはり、宮沢賢治は単にこれらをカエルの名称として捉えるだけでなく、「とのさまがえる」がほんとうに殿様になっているところをつい思い浮かべ、「とのさまがえる」と「あまがえる」が主人と家来の関係になっているところを想像してしまったのではないかと思われます。これが全てではないにせよ、「とのさまがえる」と「あまがえる」という名称が、この『カイロ団長』の童話の世界が開けていくことの一つのきっかけであったのかもしれません。
一つの言葉から物語が生まれること
以上のように、賢治の童話では、何気ない一つの言葉から、たちまち童話の世界が立ち現れてくるような現象がしばしば見受けられます。特に、その言葉の常識的な意味ではなく、言葉そのものが表す内容を思い浮かべる傾向があったようです。例えば、「どんぐりの背比べ」という言葉を、平凡な者どうしの比較としてではなく、色んなどんぐりたちが背比べをしている様子として捉える、といった具合です。
そして、ようやくこの文章の本題に戻っていくのですが、このような一つの言葉が物語を生み出すという現象の鍵となるのが、先ほどまで述べていた、〈目の前の言葉の正しさを信じて疑わない〉という傾向ではないかと思います。この傾向は、先ほどの場合は、素直すぎて簡単に人にだまされてしまう人物の造型として現れていましたが、もしこの傾向が賢治自身にも当てはまるものだとすれば、この傾向は彼が童話作品を生み出すときに彼の中で生き生きと働いていたのではないでしょうか。例えば、「どんぐりの背比べ」という言葉を、そのまま信じ込んだからこそ、色んなどんぐりたちがわいわい騒いでいる場面が思い浮かび、『どんぐりと山猫』の成立につながったのでしょう。こういう傾向があったからこそ、彼の眼前には一つの言葉からたちまち一つの物語が立ち現れてきて、それが童話の制作につながっていったのではないかと思えてなりません。
もしそうだとすれば、賢治は、〈目の前の言葉の正しさを信じ込む〉という傾向のせいで、実人生の中ではひょっとしたら僕のエピソードと同じような困った経験もあったのかもしれません。ですが、こういう傾向の持ち主だったからこそ、彼は心温まる童話作品の数々を生み出すことができたのではないかと、そう思えてなりません。賢治自身がどのぐらい自覚していたかはわかりませんが、結果的には、童話制作においてこの傾向を比類ない形で活用していたのではないかと思われます。
おわりに
以上、『注文の多い料理店』の中に見られる、「紳士たちが、扉の指示書きを信じ込んでしまう」という謎に目を向け、他の作品も参照し、彼らは目の前の言葉を信じ込んでしまう傾向があるということを指摘しました。そして僕自身の類似の経験も紹介しながら、賢治という一人の人間の謎にまで話を広げてきました。謎が解けたとは到底言えませんが、この謎のおかげで、生まれた作品が多くあるのではないかという意見にたどり着けたことは一つの成果だったと思います。
僕の体験を交えて論を進めることについては、少し違和感を持った方もいるかもしれませんが、宮沢賢治と僕自身とを重ね合わせたからこそ、たどり着ける境地があるだろうと思った上でのことなので、ご理解いただければと思います。
当連載では、本当は全部で六つぐらい謎を用意したかったのですが、作品の方から自らの存在を語り掛けてくれたような謎は、全部で三つしか見当たりませんでした。しかも、その三つ目の謎は、解決のしようがなかったため、これ以上文章を書くことはできないと判断しました。そのため、この連載は、前回と今回の全二回で終了となります。
なお、三つ目の謎について、せっかくなので紹介するだけしておこうと思います。「注文の多い料理店」の扉の色はなぜあれほどカラフルなのか、という謎です。その一部をリストアップすると、はじめの硝子戸の表・裏の文字は「金文字」。一つ目の扉の表は「水いろのペンキ塗り」の上に「黄いろな字」。二つ目の扉の表は「赤い字」、三つ目の扉の表は「黒い扉」、五つ目の扉の表の前に「金ピカの香水のびん」、裏側には「立派な青い瀬戸の塩壺」。さまざまな色が、単色でいきなりあらわれています。一見、特に秩序が見当たらないようですが、全てがでたらめというわけでもないみたいです。しかも、賢治の他の作品にも同種の現象がしばしば見られます。考察に値する謎だと思ったのですが、考察を進める手掛かりがまるでないので、諦めることにしました。
さて、この連載では二回しか書いていないわりに、けっこう疲れたなと感じました。今回の執筆の合間に小林秀雄『モオツァルト』を読んでいたのですが、その中の「謎は解いてはいけないし、解けるものは謎ではない。」という一節に出会ってしまい、はっと思い当たることもあり、しばらくの間気が滅入ってしまいました。しばらくは執筆が億劫になっていたのですが、やがて気を取り直して執筆を再開しました。結局、なんとか文章を完結することができ、一安心しています。
でもやはり、謎なんてめったに解こうとするものではないということが、前回と今回の執筆を通して少し実感できたように思います。謎が解けたと感じられた時でも、何か開けてはいけない扉を開けてしまったような気分になりますし、謎が解けなかったとしたら、その謎に気を取られたままということになりかねません。
今後は、謎に立ち向かおうとすることもほどほどにするだろうし、「『注文の多い料理店』の謎を解く」なんていう大仰な題をつけることも無くなっていくだろうと思います。
本文
・宮沢賢治作 谷川徹三編『童話集 銀河鉄道の夜 他十四篇』岩波文庫、一九五一年
『注文の多い料理店』・『オッペルと象』・『どんぐりと山猫』
・宮沢賢治作 谷川徹三編『童話集 風の又三郎 他十八篇』岩波文庫、一九五一年
『カイロ団長』
・宮沢賢治『新編 銀河鉄道の夜』新潮文庫、一九八九年
『双子の星』
・宮沢賢治『注文の多い料理店』新潮文庫、一九九〇年
『さるのこしかけ』
(山下純平)