東京大学読書サークルこだま 公式ブログ

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旅としての小説

    紋切り型のざっくりした表現だが、海外でも日本でも、近代以降の小説には「個人」が描かれるようになったと言われる。人間の心理と言い換えてもよい。夏目漱石『こころ』が長きにわたり評価されているのは、まさしく個人の「心」の内奥そのものが小説のテーマになっているという革新性と無関係ではあるまい。そして個人の心を描くためには、主人公が内省するための空間が必要になってくる。


 『近代日本文学のすすめ』という本の冒頭、碩学の研究者・作家による座談会のなかに、加賀乙彦氏のこんな興味深い発言がある。

    「日本の近代の都市化の波は、ヨーロッパやロシアなどの都市化と全然違って、家のなかに閉鎖空間をつくらなかった。棟割長屋の四畳半一間だとか、家の中は障子で区切るとか、一つの家に住みながら家族のあいだに秘密がもてない構造がずっと続いた。小説家はそういう人間関係を非常に書きにくいわけです」

 秘密がもてないということは、姦通もひそかな恋愛もなし。だから明治・大正の長編小説の主人公は、自分から家を出て動くことで思索にふけり、時に新しい人間関係を構築し、プロットが展開していく。なるほど、と膝を打ちたくなる説である。


    そういう事情があればこそ、小説における旅とは半ば強制的に「個室」をつくり、内省する「個人」をつくるための装置だったと言えるのではないか。言い換えるならば、近代小説が物語を展開させるための形式として多く「旅」が選ばれたのだ。

 

 

 漱石の初期作品草枕といえば「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される」のフレーズで有名だが、この主人公の西洋画家も旅をしている。人情にまみれた俗世を忌み、「那古井」なる温泉地へと足を運ぶ(漱石が滞在していた熊本県の小天温泉がモデルになっているらしい)。そこで「那美さん」なる謎の女性と出会い、画家はその顔を絵に描こうとするのだがどうにも描けない。……と、こんな話なのだが、はっきり言ってこの小説、ストーリーらしいストーリーはほとんど存在しない。それは作者の漱石も自認するところで、本人の言葉を少し引いてみよう。

    私の『草枕』は、この世間普通にいふ小説とは全く反対の意味で書いたのである。唯だ一種の感じ——美くしい感じが読者の頭に残りさへすればよい。それ以外に何も特別な目的があるのではない。さればこそ、プロツトも無ければ、事件の発展もない

    ストーリーの展開で魅せるのではなく、描写そのものを突き詰めることで「美くしい感じ」を出したというのだ。読者の意表をつく清々しいコメントではないか。「世間普通にいふ小説」とあるが、この自作解説が発表されたのは1906年文学史的に言えば自然主義リアリズム隆盛の時代。人生における欲望や感情や行動をありのままに書くことが文学の真理なのだ!と息巻く文学者たちを横目に漱石はそれらを一切無視し、「余が欲する詩はそんな世間的の人情を鼓舞する様なものではない」とのたまう主人公を生み出した。つまりはとことんひねくれた小説である。


 ある朝、那美さんが九寸五分の白鞘の短刀を持っているのを絵描きが目にする。その後、「物騒な男」と那美さんとが何やらシリアスに相対している場面に出くわし、「振り向く瞬間に女の右手は帯の間へ落ちた。あぶない!」。ところが短刀に見えたものは短刀にあらず、「財布の様な包み物」を男に渡しただけであった、という拍子抜けなオチ。ことが起きるかと見せかけて何も起きない……漱石漫談』の中でいとうせいこう氏が「物語膝カックン」と呼んでいるのは言い得て妙だと思う。


 さて、こういう性格を持つ『草枕』が「旅」という設定のもとで作られている点に瞠目すべし。序盤で確認したように、物語を構築する上で「旅」とはプロットを展開させる役割を持ちうる装置である。漱石がどれだけ意識的だったかどうかは分からないが、旅をしているのにあえて何も物語が進まない、という「反・物語」の構造がここにも潜んでいよう。


 また、旅というのはそれなりに暇でなければできない。できないはずだが、『草枕』には終盤に那美さんの従弟が日露戦争へ出征しに行く場面がある。すなわち絵描きが温泉地へ来ているのはなんと日露戦争の真っ最中なわけで、日本は全く「暇」ではない。そうか、それで宿の人も「近ごろは客がない」と言っていたのか、と読者は納得することとなる。絵描きが逃避したい「現実」とは、戦争に翻弄される日本の現実であったのだ。


    小説の終わりがけには、「文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付け様とする」といった絵描きの語りに託し、漱石一流の近代批判がこれでもかと展開される。旅はいいなあ、と安穏として読み進めていた読者の胸を撃ち抜くかのように。

 

 

 ちょうど名前が出てきたから紹介するわけでもないが、旅といえば、いとうせいこう『存在しない小説』はまさしく世界を旅できる小説である。この本にはアメリカ、ペルー、マレーシア、日本、香港、クロアチアの作家が書いた六つの短編が収められているのだが、それらの作家は「存在しない」。ひとつ目の作品「背中から来て遠ざかる」は存在しないし、著者アントニオ・バルデスも存在しないし、訳者仮蜜柑三吉も存在しない。『存在しない小説』というウェブサイト宛に届いたらしい(とされる)これらの短編は各々が「世界文学」としての十分な密度を持ちながら、その「存在しなさ」をもって読者を煙に巻く。編者・いとうせいこうは計六回の「編者解説」に顔を出すが、そこでは四つ目の短編「能楽堂まで」の作者・いとうせいこうが「存在しない」こともまた明言される。……これ以上いくとこの原稿自体が複雑怪奇の様相を呈しかねないのだが、メタ・フィクションという言葉だけでは片付かないこの本の全貌を、私自身いまだ掴めずにいる。


 ともあれ『存在しない小説』の読者は世界を旅し、時間を旅し、メディアとしての活字の可能性を旅することとなる。そこには、読書という行為の本質を問い直す一種の快楽が確実に「存在する」ことだろう。

(大島一貴)