東京大学読書サークルこだま 公式ブログ

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人間の根源を問うこと ―ゴーギャン・夏目漱石の紹介

六人部昭典『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたいゴーギャン 生涯と作品』東京美術、2009年

 

    ゴーギャンの人生は、旅に満ちたものでした。彼はまず、幼少期の6年間を家族と共にペルーで暮らしています。大人になってからも、しばらくの間はパリで株式仲買人として順調にキャリアを歩んでいましたが、仕事を辞めて絵画や彫刻の制作に専念するようになった後は、国内外の各地に移り住み、現地での制作を行っています。フランスのブルターニュ地方のポン=タヴェンやル・プルデュ、さらにはカリブ海のマルチニック島にも出かけ、現地の人々の生活や風景を描いています。中でも有名なのは、タヒチへの移住です。1891年-1893年の 第1期タヒチ時代、1895年-1901年の 第2期タヒチ時代と長年にわたりタヒチで生活をしています。現地で絵画を制作し、タヒチの滞在記『ノア・ノア』の執筆も行いながら、タヒチタヒチの人々に向き合い続けました。タヒチを去った後は、ポリネシアにあるヒヴァ=オア島に出かけ、その地で生涯に幕を閉じています。彼は終生旅をして、旅先で絵画を描き続けた画家だったのです。

    彼がこのように西洋以外の各地に旅をしたことの大きな要因は、西洋に対する反発です。彼は近代化が進みゆく西洋に違和感を覚え、「野生」の生活に魅力を感じるようになります。近代化の波を受けていない各地に出かけ、「野生」の生活をする人々と共に暮らし、現地の自然に囲まれながら、絵画を制作することを目指したのです。

    ゴーギャンの代表作を多く含む、第1期・第2期タヒチ時代の作品から受けた印象について語ろうと思います。彼の作品には、お世辞にも美しいとは言えないようなものが多くあります。初めて見た時には思わず目を背けたくなる作品も少なくありません。ですが、単に美的でないだけでなく、そこには何か力強く根源的なものが表現されているようです。

    例えば、第2期タヒチ時代に描かれた《夢(テ・レリオア)》という作品。画面の中には、どっかりと床に座り込み、冷ややかな笑いを浮かべたタヒチの二人の女性が描かれています。壁側には、敵意のあるまなざしをこちらに向ける人々の姿も見受けられます。醜い絵だと言いたくなるほどです。ですが、彼女らの笑いは、何かより根源的なものを含んでいるようです。西洋の文明がもたらす幸が表層的なものに過ぎないことを見抜き、文明を冷笑し、我々人間を根本から揺さぶるような姿に見えてくるのです。愛すべき作品とは到底言い難いものなのに、我々の心の深層に訴えかけ、無意識の内にこの作品に捉えられていくような不思議な感覚を味わいます。

    最後に紹介したいのは、彼の代表作《我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか》です。「野生」の人々を通して、人類の根源と向き合い続けてきた芸術家の、画業の集大成とも言うべき作品です。人類の存在の根源を問うという、遥かなる内面の旅へと我々を誘うような絵画です。是非ご覧ください。

 

夏目漱石『行人』新潮文庫(新潮社)、1952年

    学問にはげむ一郎は、家庭の中で孤立しています。妻の直も、妹の重も、父や母も、彼にあまり理解を示していません。家族みんなでご飯を食べている時にも彼はほとんど口を開かず、食事を終えると戸をばたんと閉めて、書斎の中に閉じこもってしまいます。本書の後半では特にその傾向が強くなっていきます。

    そんな一郎を見かねて、家族は気分転換のために旅に出ることを勧めます。そして、一郎の知己であるHさんに、一郎と一緒に旅に行くように依頼します。Hさんは、一郎の書生時代からの友人であり、かつて共に学問に励み議論を交わした仲間です。家族はHさんに、一郎が旅先でどのように振る舞っているかを知りたい、何か変わった出来事などがあれば報告をしてほしいと伝えます。Hさんは承諾し、依頼された通りに一郎のふるまいや言動について丁寧な文章を書き、彼の家族に手紙を送ります。この手紙に記されているHさんと一郎の対話の様子は、この小説のクライマックスとも言うべき、迫力ある場面です。

    日常生活の中では、一郎はただ寡黙で偏屈な学者という扱いを受けるばかりでした。彼の真意や望みについて、家族の誰も深く理解しようとはしてくれません。日常生活は一応平穏なものではありましたが、一郎はそこに偽りを見出さざるをえませんでした。

    一方、旅先ではその様子が一変します。一郎にとってHさんは、家族の問題に関しては第三者であり、また学生時代に学問に取り組んだもの同士であり、知的水準も一郎と同程度に高い友達です。そんなHさんは、一郎のことを本気で理解するべく、懸命に耳を傾けます。Hさんを前にして、一郎は初めて自身の孤独や苦悩について、まとまった形で口にするようになるのです。それは、「狂気の淵に臨む知性の形相」「絶対の孤独からの呻き」(岩波文庫の『行人』の解説より)といった言葉がふさわしいような、凄まじい苦悩です。

    一郎の言葉を抜粋します。   

    「死ぬか、気が違うか、それでなければ宗教に入(い)るか。僕の前途にはこの三つのものしかない」

    兄さんは果してこう云い出しました。その時兄さんの顔は、寧(むし)ろ絶望の谷に赴く人の様に見えました。(塵労 三十九)

    二人は、自己や知性や宗教といった事柄に関わる、様々な議論を闘わせます。マンネリ化した日常生活の中では決して行えない、魂と魂のぶつかり合いとも言うべき誠心誠意の対話です。しかも、そうした対話を通しても、彼の孤独は決して癒えることはありません。明らかになったことは、彼の孤独が到底解決しえないものであることぐらいです。

 

    一郎とHさんの旅の場面以外について言及しておくと、別の旅行中に二郎と直の間に起こった出来事も見所です。また、旅以外の部分も、人によっては冗長だと感じるのかもしれませんが、どこか江戸っ子らしい風情が感じられる人々や会話が多く、これはこれで面白いものです。

(山下純平)