東京大学読書サークルこだま 公式ブログ

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溶け合う ―川端康成『伊豆の踊子』を読んで―

 雨水や、川の流れ、陽の光を反射する海、そして零れ落ちる涙。それらの水が全てやわらかく溶け合って、静かに澄んだ充足感を心に残す。『伊豆の踊子』を読み終わったあと、そんな感慨に襲われた。

 

 川端康成の情景描写、とりわけ水の描写は圧巻の美しさだ。私が読後に抱いた感慨は、きっとその描写によるところが大きいのだろう。

    冒頭、旅路をゆく「私」が通り雨に遭う場面では、「雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追って来た」。雨宿りの茶屋をあとにして入った暗いトンネルでは、「冷たい雫がぽたぽた落ちていた」。旅芸人の一行と合流し到着した湯が野では夕暮れからひどい雨が降り、「山々の姿が遠近を失って白く染まり、前の小川が見る見る黄色く濁って音を高めた」。旅芸人の一行の中でも、若い踊子の娘に、「私」はなんとなく心惹かれていた。夜、踊子が叩く太鼓の響きが雨音に混じって聞こえると「私」は宿の雨戸を開け、闇の中に踊子の姿を想った。太鼓の音がやむと、「雨の音の底に私は沈み込んでしまった」。床に入っても眠れず、湯にはいる。「雨があがって、月が出た。雨に洗われた秋の夜が冴え冴えと明るんだ」。翌朝また湯に行くと「水かさの増した小川が湯殿の下に暖く日を受けていた」。

    湯が野を発ち、下田へと歩いて向かう朝。「秋空が晴れすぎたためか、日に近い海は春のように霞んでいた」。下田に到着するが、旅費の尽きた「私」は翌朝には東京へと発たねばならない。その晩、踊子は「私」の活動について行くことを母から禁じられ、私も一人で活動に行くがすぐに宿へ帰ってきてしまう。「窓閾(まどしきい)に肘を突いて、いつまでも夜の町を眺めていた。暗い町だった。遠くから絶えず微かに太鼓の音が聞こえてくるような気がした。わけもなく涙がぽたぽた落ちた」。踊子と別れ、下田港から東京へ向かう船の中。「私はカバンを枕にして横たわった」。「涙がぽろぽろカバンに流れた。頰が冷たいのでカバンを裏返しにしたほどだった」。やがて日が暮れて、「船に積んだ生魚と潮の匂いが強くなった」。船で出会った少年の学生マントの中で、「私は涙を出まかせにしていた」。

    丁寧な描写には、降りしきる雨の冷たさや、まばゆい水面の光、潮の匂い、ぽたぽたと零れ落ちた涙の塩辛さまでも、手に取るように感じられる。短い作品だが、読んでいる間じゅう五感を刺激され続けるようだった。川端が巧みな情景描写で描き出した水の風景。それらは溶け合いひとつになって、やわらかく澄んだ感慨を読者に残していった。冒頭に述べた読後感は、まさにこの作品の最後の一行に言い表されている。「頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった」。

 

 さて、この作品において、溶け合っているのは水だけではない。旅の道中で出会った人々とも、「私」は深く交流し、溶け合ってゆくことになる。

    冒頭の茶屋で出会った婆さんと爺さん、彼らがこの作品において「私」が出会う初めの人物となるが、この二人と「私」との間にはよそよそしい距離感が感じられる。「私」は婆さんに旅芸人たちのことを尋ねるが、彼らの職業に対する軽蔑を滲ませた、ぶっきらぼうな返答が返って来るのみであった。中風(ちゅうぶ)を患い全身蒼ぶくれの爺さんには、寒い山から早く降りるべきだとは言えず、「お大事になさいよ」としか言えなかった。雨が上がり、旅芸人の一行を追って茶屋を発つが、見送りについてきた婆さんが「私」の置いて行った五十銭銀貨に大袈裟なまでに感じ入っているのが、道を急ぐ「私」には少々鬱陶しくもあった。この物語は、旅先で会った人といまいち馴染めずに、距離を取ってしまう「私」の描写から始まる。

    しかし、その後はどうだろうか。旅芸人の一行と合流して湯が野へ向かう道中、その中にいた男と「私」とは絶えず話し続けて、すっかり親しくなる。踊子のことが気にかかっていたということもあって、「私」は彼らと下田まで一緒に旅をしたいと申し出る。湯が野に滞在している間、「私」は自らの宿と旅芸人たちが泊まる宿とを往復しながら、彼らと囲碁や散歩、三味線などをして遊び、身の上話も交えながら次第に交流を深めてゆくこととなる。また、同じ宿に泊まっていた紙屋の男と碁を打って夜を明かしたりもする。

    湯が野を出て下田へ向かう道中には、ところどころの村の入り口に「物乞い旅芸人村に入るべからず」と書かれた立て札が立っていた。各地を旅してお客さんの前で芸を披露し、お金をもらう旅芸人という職業は、当時の人々にとっては軽蔑の対象だったのだ。その証拠に、冒頭の茶屋の婆さんも、彼らを「あんな者」呼ばわりし、「お客があればあり次第、どこにだって泊まる」のだと、強い軽蔑を含んだ口調で言っている。だが「私」は、湯が野での旅芸人たちとの交流を経て、旅芸人という肩書きの垣根を超え、一人間としての彼らと向き合うようになる。湯が野出発の前夜にはこんな一節がある。「好奇心もなく、軽蔑も含まない、彼らが旅芸人という種類の人間であることを忘れてしまったような、私の尋常な好意は、彼らの胸にも沁み込んで行くらしかった」。

    東京へ発つ日にも、「私」が偶然出会った人々と寛容に関わりあう様子が描かれている。「私」は下田港で土方(どかた)ふうの男に突然声を掛けられ、息子を亡くした婆さんとその三人の孫を上野駅まで連れて行ってほしいと頼まれるが、快くこれを引き受ける。見送りにきた踊子とは港で無言の別れを遂げることとなったが、その後船で出会った少年とは話をして打ち解ける。海苔巻きなどを分けてもらい、夜になると「私」は少年の学生マントの中にもぐり込んで、少年の体温に温(ぬくも)りながら涙を出まかせにする。

 

 かすかに心が通じ合っていた踊子と別れた「私」だったが、「ただすがすがしい満足の中に静かに眠っているようだった」。それは、伊豆で出会った様々な人間と関わり合い、職業や境遇を超えて互いに感情を交わし合うような体験を経て、踊子との別れも含め「何もかもが一つに融け合って感じられた」からだろう。全てが溶け合った後の澄んだ気持ちが、旅に出る前の「私」の息苦しい憂鬱を流し去り、「私」そして読者にも、満ち足りた静かな余韻を残したのだ。

(村上めぐみ)